1980年代からスーパーアイドルとして活躍してきた『少年隊』。2020年末にメンバーの植草克秀(愛称:かっちゃん)と錦織一清(愛称:ニシキ)が退所したことで事実上の活動休止状態となった彼らだが、2021年は、それまで以上にメディアで取りあげられるようになった。
具体的には、『FNS歌謡祭』(フジテレビ系)で実施された「若者300人に聞いた好きな昭和の曲ベスト10」で第2位に『仮面舞踏会』がランクインし、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)での「10代~50代に緊急アンケート 衝撃的だったデビュー曲ランキング」でも、少年隊が12位となった。さらに、デビュー記念日となる12月12日には、初の評論本『令和の少年隊論』(アチーブメント出版)も刊行される。
昨今の注目されぶりには、単なる昭和ポップスブームや、ジャニーズ事務所の後輩によるカバーだけでは説明できないほどの勢いがある。こうした人気について、当の本人はどう感じているのだろうか。前回、退所後の思いやSNSの活用法、大反響を呼んだランチタイム&ディナーショーについて話してくれた植草克秀に、今回は当時の楽曲や、故・ジャニー喜多川さんに関する思い出を語ってもらった。(インタビュー第1回:少年隊・植草克秀、明るい笑顔の裏で燃えたぎる「挑戦心」と新たに気づいた「思い」)
少年隊の楽曲はまず“コンセプトありき”
──2021年、テレビの音楽番組で少年隊の楽曲が取りあげられることが多かったですよね。
「ありがたいことに、大御所の先生方が作ってくれたすごい曲が多いから、今でも愛されてるんじゃないかな? それと、ダンスについても、当時は早すぎたというか、斬新すぎたのかな、と思います。今は、ダンスをわかっている人が増えてきたから、当時の映像を見て「あれ!?(すごすぎるかも)」ってなるんだと思うんですよね。
デビュー曲である『仮面舞踏会』のときからそうですが、作曲の筒美京平先生や編曲の船山基紀先生、そして、当時ディレクターだった鎌田俊哉さんなど、力のあるスタッフが一丸となって僕らを見てくれていたのかと思うと、頭が下がる思いです。特に、初期の数年間は、シングルだけじゃなくアルバムの曲に至るまで、“みんなで一緒に作りあげた”という感覚がありますね」
──具体的には、どんなアイデアがあったんでしょうか。
「僕らは『仮面舞踏会』のころから、まずは“コンセプトありき”で作っているんですよ。あの時代は、カラオケをするならBOXじゃなくて、カラオケスナックで歌うのが普通だったでしょ? だから、“新橋のサラリーマンたちが、ネクタイを頭に巻いてはしゃげるような曲があればいいよね”っていうところから始まっているんです」
──当初は『サクセス・ストリート』(のちに1986年のアルバム『翔 SHONENTAI』に収録された、比較的ストレートなアッパーチューン。作詞:ちあき哲也、作曲:筒美京平、編曲:船山基紀という布陣は『仮面舞踏会』と同じ)をデビュー曲にする予定だったそうですね。
「そうです。でも、もうひとひねりしてほしいと、ジャニーさんや鎌田さんが作家の先生にお願いして『仮面舞踏会』が生まれたんです。その次の『デカメロン伝説』は、フォーリーブスの楽曲『地球はひとつ』みたいに、“子どもが覚えてくれそうなメジャーコードの曲って、心に残るんじゃないか”という案が発端でした。それで、『仮面舞踏会』と対極となるような曲を選んだ。
3rdシングル『ダイヤモンド・アイズ』については、最初はそのB面に入っている『レイニー・エクスプレス』をA面にしようという案もあったんですよ。でも、“踊れる曲のほうがいいだろう”ということで、『ダイヤモンド・アイズ』に決まったんです。とはいえ、この歌は難しかった。シンコペーション(※本来のリズムから外れた部分)のリズムが取りづらくて、しかも、サビの始まりで入る歌も難しくて、スタッフに“何やってんだよ!”とよく怒られていました(笑)」
──4thシングル『バラードのように眠れ』については、いかがですか?
「この曲は、ジャニーさんが『ロックよ、静かに流れよ』(※1984年の吉岡紗千子による手記。1988年にジャニーズ事務所が男闘呼組を主演にした映画も製作)という言葉が大好きで、そういったタイトルありきで作ってもらったんですよね。あのころって、マッチさん(近藤真彦)の『ギンギラギンにさりげなく』もそうだけど、“キャッチーなフレーズを歌のなかに入れよう”というところから始まっているものが多いんですよ。
でも、いちばん衝撃的だったのは、やっぱり6thシングルの『君だけに』かな。それまでずっとダンサブルな曲できたのに、“バラードで勝負しよう”ということを言われて、“マジか!?”って正直、不安でした」
──実際には、少年隊のなかでも史上最長のロングヒット(オリコンTOP100内21週間)を記録し、代表曲のひとつになりましたよね。
「このあいだ、(初期ディレクターの)鎌田(俊哉)さんに会ったときに、“『君だけに』は、筒美京平先生がもともと植草の声をイメージして作った曲だから、歌い出しは植草にしてくれって言われていた”と、初めて聞かされたんですよ。うれしかったなぁ。このころのアルバム『TIME・19』(1987年)のなかでは、『グッバイ・カウントダウン』が特に好きだったかな。いい曲、いっぱいありますよね。
最近、自分で歌っていて、当時よりも好きになったのが、その翌年にリリースした『じれったいね』です。あの歌って、普段はメディアにもあまり取りあげられないけれど、“これでもか! これでもか!”っていうほど、メロディーにもアレンジにもいろんな要素が詰まっていますよね」
──確かに。曲が次々と展開していって、歌うのも難しそうですね。
「そう。ほかに、実際に歌ってみて難しいなって感じたのは『ミッドナイト・ロンリー・ビーチサイド・バンド』(シングル『君だけに』のカップリング)。これも筒美先生の作曲で、若いころに“これは大人になってから歌ってみたらカッコいいだろうな”って思って、少年隊の35周年記念ベストアルバムの限定盤で歌い直してみたんだけど、まぁ……難しくて歌えない(笑)。50代だから歌えると思ったらまだまだでしたね……。限られた時間のなかで、“これとこれを録り直そう”ってメンバー3人とスタッフで決めて、いくつかニューボーカル版ができたんですよ」
曲の選定からアレンジに至るまでがっつり関わった
──ほかにも、『星屑のスパンコール』(1986年、アルバム『翔 SHONENTAI』収録)も歌い直していらっしゃいますね。こちらは、少年隊のなかではカラオケ人気TOP5に入るほどの人気(JOYSOUND調べ)とか。
「この歌詞はもう、ファンと僕たちが夜の街で出会う、というストーリーがうまくできているよね。ジャニーズの後輩たちも歌ってくれているから人気なんだろうけど、俺のなかでは僕ら3人で歌っているイメージが強いなぁ。言っておきますが、こんな経験は一切ありませんので(笑)。
この35周年記念ベストの限定盤に入れてもらった『GATE』、『ビロードの闇に抱かれて』、『Because』の3曲は、以前に録音していた未発表曲です。
そのなかで『ビロード~』は作曲が馬飼野康二、編曲が船山基紀というフルオーケストラのバラードだから、おそらくミュージカル『PLAYZONE』(プレゾン。2008年まで少年隊が主演を務めた)に使う予定だった曲じゃないかな?
馬飼野先生には『情熱の一夜』(1999年、シングル)も書いてもらっていますね。パーカッションの入ったラテン系のナンバーで、振付師がトラヴィス・ペイン(マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』などを担当)だったこともあり、かなり難しかったです。同じ年のアルバム『Prism』に入っている『The Longest Night』はニシキが大好きな曲で、PLAYZONEのオープニングや、レギュラー番組『少年隊夢』(フジテレビ系)でも使ったりしていました。
『Because』もきれいなバラードだから
そういえば、ヨシマサさんが『EXCUSE』(1993年、シングル)を作ってくれたときに「少年隊を裸にしたいんだよね」って言われて、俺は素直だから文字どおりの意味に受けとって、“裸は嫌だよ!”って言ったんだよね(笑)」
──これまでに話が出た作品とは対照的に、3人がほとんど語らない曲もありますよね? 例えば、1988年に12インチ・シングルで出た『SILENT DANCER』は、意外とリクエストもあるようですが……。
「いつもは、基本的にどんなふうに作りこんでいくかという段階から参加しているのですが、この曲は、時計ブランド『SEIKO』のCM企画ものを歌っただけなんですよ。ただ、CMでたくさん流れたことや、逆に歌番組で披露する機会が少なかったことで、思い入れのあるファンの方が多いのかもしれませんね」
仲間や先輩、ジャニーさんの影響はやはり大きい
──少年隊は、デビューまでの道のりが長いですよね。例えば先日
「僕らは、レコード・デビューする前に海外レーベルとも契約していて、アメリカのミュージシャンであるマイケル・センベロのプロデュースで、すごくカッコいい英語曲を何曲か作っていたんですよ。それが、納得いく形になる前に、日本での活動が忙しくなっちゃっ
──ほかにも、さまざまな経験を積まれていますよね。先日、かつて少年隊がバックで踊っていた近藤真彦さんのコンサートにも足を運ばれたとか。
「はい。マッチさんとは頻繁にやりとりしているわけではないのですが、やはり人生の先輩で、歳上でもあるし、尊敬できる部分が多いです。そのコンサートでも、“やっぱりカッコいいよな”とか、“この演出、自分でもやってみたいな”とか、いくつになっても教わることがたくさんあって、日々、勉強させてもらっていますね。それに、人間って一度なまけてしまうと、どんどん楽な方向に進んじゃうじゃないですか。そうならないためにも、刺激は必要ですね!
要は、みんなに楽しんでもらいたいんですよ。そのために勉強することばかり。マッチさんのコンサートでも、中野サンプラザでの平日2回公演で、満席になるのもすごかったし、ファンの方も曲ごとにペンライトを振りわけるなどされていて、やっぱり根強いファンの大切さを思い知りました。それを見て、自分のファンの方々も大切にしたいなと」
──そんな植草さんが、大切にしている言葉や座右の銘はあるのでしょうか?
「座右の銘といえば、ヒガシはこういう質問への受け答えが得意だよね。僕は、その場で何か答えたとしても、後日“そんなの言ったっけ?”って思うものもあり、反省するのですが(笑)、ネガティブなことは言わないようにしています。それと例えば、周りの人に怒ったとしても、その場限り。基本的に1回注意したら終わりです。ネチネチと言うのも、言われるのも、お互いつらいでしょ?
──植草さんは、錦織さんや東山さんがご自身をジョークのネタに
「それを聞いたみなさんが笑ってくれれば、いいんです。そこで怒り出したら、それはエンタテインメントじゃないんですよ。ジャニーさんがいたら、きっと“You、面白くないよ”って俺が怒られます。ニシキは、ミュージカルの本番中でもどんどん笑わせてきて、吹いちゃうときもあったんだけど、ジャニーさんならそれも“笑うYouが悪い”って言うはず。
以前にコンサートで宙づりになっていて、綱元さんのちょっとした操作ミスで壁にぶつかったときがあったんです。出血もあって“痛い! 痛い!”って言いながら袖にはけたあと、ジャニーさんが心配で駆けつけてくれたのかと思いきや、“YOU、(痛がるのは)芝居心がないよ!”って、怒られました(笑)。あんなにエンタメ心を大事にして、何から何まで見てくれていた人って、いなかったんじゃないかなあ。“ただ面白いことを言う偉い人”みたいに思っている後輩もいるかもしれないけれど、僕らが出会ったころのジャニーさんは、まだまだ元気だったから、本当に細かい部分から教えてくれました」
──ジャニーさんの最高傑作は少年隊だ、というエピソードもありますもんね。
「それは人づてに聞いたことがありますが、自分たちが最高かどうかはさておき、いちばん時間をかけてデビューさせたという点では、僕らだと思いますね。だって、歌もダンスもさることながら、英会話レッスンまで通わされたんだから。ボーカルレッスンも受けていたし、ダンスも国内外のすごい方々のところにも習いに行きましたし、とにかくエンタテインメントに必要なものは、何でも学ばせてくれました。アメリカのショーもいっぱい見せてもらい、フランク・シナトラとサミー・デイヴィスJr.、ライザ・ミネリの3人が来日したとき(1989年)も、アメリカナイズされた雰囲気を肌で感じられました。
それと、僕らは合宿所時代に、アメリカにいらしたジャニーさんのお兄さんから現地の映像をたくさん送ってもらって見ていました。マイケル・ジャクソンやジャクソン5、オズモンド・ブラザーズなどの足の動きなどは、まだ日本人がほとんど知らない時からコピーして、例えば『ブルドッグ』(フォーリーブスのカバー)の間奏の部分で取り入れてみたり。そういう意味では、僕らがいちばん恵まれていた気がします。最高のものを見せてもらってきたからこそ、それに近づこうとし続けていたことで今がある」
──その努力が、今年ソロで開催されたランチタイム&ディナーショーにも生かされているんですね。
「確かに、(パフォーマンスする曲数を)40数曲から減らさないなど、ハードルを下げないのは影響が大きいですね。ジャニーさんは、お客さんのことを第一に考えて、“これもやってみない? あれも入れてみない?”って、どんどん追加していくんですよ。だから僕も、同じように動いちゃう。今後も“ジャニーさんならどうするだろう?”って考えながら動く部分があるでしょうね。ジャニーさんからの教えは本当に勉強になりましたし、偉大な方ですよね。
でも、ジャニーさんがいつもコンサートやショーのあとに注意するのは、歌や振り付けじゃなくてMCのことが多いんですよ。“YOUたちMC面白くないよね、もっと面白いことしゃべれないの?”って、よく言われました。そういうのを俺たちが学んで、ニシキのその部分をコピーしたのが中居(正広)だろうね(笑)。ニシキの天才的なトークを、ずっと見ていたんだと思う。
あとは、グループの中にニシキがいたことが大きくて、
合宿所時代、真夜中に起こされて、“こんなカッコいい音楽をやりたい”って、彼が自分で編集したカセットテープをリビングで聞かされたことも覚えています。ダンスでも、彼の柔軟さは誰にもマネできないんじゃないかな。なんかね、あのしなやかさは関節の動きから人と違うんですよ。
ヒガシはヒガシで独特で、性格も趣味も俺と真逆なので、若いときにはたわいもないことで“ちゃんとやれよ”、“やってるよ”みたいな言い合いを何度もやりあいましたね。それを横で笑って見ているのがニシキ(笑)。三者三様のまま、個性を生かしてやってこられたのがよかったんだと思います。それぞれのいいところだけを伸ばそうというのも、ジャニーさんの
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話を聞くうちに、植草はジャニー喜多川をはじめとするスタッフやファンなど、周囲の声に耳を傾けたり、3人としてのバランスを考えたりと、常に客観的に少年隊を見つめてきたことがよくわかった。つまり、天才肌の錦織、ストイックな東山に、周囲の状況を理解しつつ目標に向かって邁進(まいしん)する植草がいたからこ
《取材・文/臼井孝(人と音楽をつなげたい音楽マーケッター)》
【PROFILE】
植草克秀(うえくさ・かつひで) ◎1966年7月24日生まれ、千葉県出身、O型。1980年代前半に少年隊のメンバーとして活動を開始し、1985年12月、シングル『仮面舞踏会』でレコード・デビュー。以降、9作のシングルでオリコン1位を獲得。少年隊の活動と並行し、ソロとしてドラマ『さすらい刑事旅情編』や『渡る世間は鬼ばかり』などの人気シリーズにもレギュラーで出演。2020年末にジャニーズ事務所を退所し、2021年1月より新会社「2steps」を設立。
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