今年で設立40周年の老舗ライブハウス『渋谷La.mama』(以下、ラママ)。第1弾インタビューでは設立から、店名の由来、数々のバンドや芸人を輩出した裏側について、代表を務めるはたの樹三さんにお話を伺いました。
第2弾インタビューは、ラママのイベントプロデューサー兼ブッキングも務める石塚明彦さんに、リアルなライブハウスの現状について語ってもらいました。
老舗ライブハウス「新宿JAM」の閉店で、ラママのブッキングンマンに
──石塚さんは「太陽の塔」(1995年にメジャーデビューしたロックバンド)などで、ドラマーとしてバンド活動もされています。バンドマンからどのようにしてラママのブッキングをされるようになったのですか?
「もともと、バンド解散後の2006年から『新宿JAM』(1980年オープン、2017年に閉店した老舗ライブハウス)の店長をやっていたんです。でもJAMが閉店することになって、“ラママでブッキングができる人を探しているみたいだから、一度、社長(はたの樹三さん)に会ってみないか?”って誘われたのがきっかけでしたね」
──バンドではラママによく出演されていたのですか?
「それが2〜3度しか出たことがなくて、なじみがなかっただけにすごく新鮮だったんですよ」
──ちなみにライブハウスでは、どのように業務分担をしているのですか?
「ラママは、店長がライブ中のPA(ライブ中の音響の調整)や照明もやっています。一般的にライブハウスは店長のほかにブッキングマネージャーがいたり、PA、照明、受付、ドリンクカウンター、配信担当みたいな感じで、スタッフでそれぞれの業務を回しています。そこに電話応対や問い合わせを担当するデスクがいます」
──結構、大所帯なのですね。石塚さんがブッキングをするようになって、出演者の傾向はどのような感じですか?
「僕がJAMで働いていた頃は、出演者はほぼバンドだけでした。ラママに来てコロナ禍になったここ2年は、バンドだけではなくアイドルイベントが増えたのが大きいですね。最初は演奏じゃなくてオケ(録音された音源)で歌うのはどうだろうって思ったけれど、実際にライブを観たら最高でした」
ラママは年中無休。最近増えている「個人イベンター」とは?
──サブスクリプションと呼ばれる定額制であらゆるジャンルの音楽を聴けるようになって、出演者も変わってきましたか?
「サブスクの普及で、音楽を聴く人の裾野はめっちゃ広がっていると思いますね。ジャンル分けもなくなってきたと感じます。今は、青春パンク(2000年代に音楽シーンに起こったムーブメント)と呼ばれたガガガSPや銀杏BOYZのように、バンドがライブハウスの動員だけで人気が出て、シーンで注目されるようになるのは難しいですよね。バンドの数はブームのころよりは減っている気がします。今は弾き語りとかも増えている感じです」
──表現方法も、バンドだけにとどまらずバラエティになってきたのですね。石塚さんがブッキングするときに、気をつけていることはありますか?
「イベントをやるときは、お互いがある程度、知り合いじゃないとうまく回らなかったりするので、やっぱり各バンドの人間関係を調べたりはしますよね(笑)。僕の場合はですけど……。出演者とミーティングをしてどんな音楽やバンドが好きかを聞いて、そこからイベントを作り上げていくのが好きですね。他に自分の人脈からであれば、僕のバンド(太陽の塔)のプロデューサーだったPANTAさんのバンド・頭脳警察と、僕の友達のフラワーカンパニーズをブッキングしたりとか。あとは同時代に活躍していたけれど、実は一緒に出演していないようなバンドを組み合わせたりしたときの化学反応が面白いですね」
──ラママの営業は年中無休なのですか?
「そうなんです。365日中、正月三が日以外は営業しています。だからずっと同じブッキングのやり方をしていると、スケジュールはなかなか埋まらない。最近は、『個人イベンター』と呼ばれる個人でライブハウスを借りて企画をする人たちと組むことも多いですね。個人イベンターは普段は全然違う仕事をしていたりするので、出演者のギャラについてとか、イベントの進め方などの相談に乗ったりもします。お客さんでライブハウスに来ている人って、みんな個人イベンターになれる可能性があるんじゃないかなって思うんですよ。だって僕らと少し違う思考回路を持っているから、ものすごく面白いですよね。それと個人イベンターさんは本当に自分が好きなバンドを呼んでくるから、僕らが考えつかないような組み合わせとかあるんですよ」
──個人イベンターの好きなようにイベントを行えるのですね。
「“今日1日、君の好きなイベントをやってください。僕が後ろからサポートするよ”っていう感じですね。個人イベンターさんは、1年に1回くらいのペースでイベントをするから、その集中力って半端ないんですよね(笑)。彼らが涙を流してイベントが終わることも結構ある。だって自分の好きなバンドが出てくれて、お客さんが観に来て、好きなアーティストから“ありがとう”って言ってもらえるわけじゃないですか。たまらない経験だよね」
ライブハウスが窮地の中、ラママが40周年を迎えられた理由
──ライブハウスに出演するのは、いわゆるノルマと呼ばれる支払いが必要だと聞きますが……。
「2011年の東日本大震災の前は、出演したいというバンドが多かったので、新宿JAMくらいの大きさの箱(注:スタンディングで200人収容できた)でも1組に対して3万円のノルマをもらっていました。1日に5バンド出たら、それだけで15万円なんですよ。今思えば、よくそんな厳しい条件で出演していたなあって思いますね」
──そうなんですね。ラママはコロナ禍で2か月くらい休業した時期もありましたし、収益を出すのは大変だと思いますが、それでも石塚さんがライブハウスや音楽活動から離れなかったのはなぜですか?
「もちろん、無理かな……って思ったこともあるんですよ。第何波が来たって、コロナ禍で何もできない状態が続いていて、もう7回ぐらい心が折れていますね(笑)」
──コロナ禍でライブができない状況が続いて、これまで観に来ていた人たちもライブハウスから足が遠のいているかもしれませんね。
「そういう人ね、すごくいっぱいいると思うんですよ。言い方が難しいけれど、影響力があって売れている人、ファンが多いアーティストはライブをやりにくいご時世ですし、お客さんもたくさん離れていったと思うんですよね。今、少しずつですが客足も戻ってきているけれど、まだライブハウスが怖いっていう人は、もう戻ってこない可能性もありますよね……」
──ライブハウスが窮地の中、ラママが40周年を迎えられた要因は何だと思いますか?
「僕がラママに入ってきて思ったのは、その時代ごとに“ラママが好き”っていう人がめちゃくちゃいるんですよね。それが強みかなって思いますね。アーティストにも、“ラママが好きだから出たい”と思ってもらえる。それが長続きした理由だと思います。ラママという空間が、独特な磁場を持っているんじゃないかな」
──石塚さんは、演者としてもラママのステージに上がられていますが、ほかのライブハウスと比べて出演者として見たとき、ラママはどういう空間ですか?
「僕はドラムなんですが、ラママはドラム周りにあるモニターから聴こえる音が、きれいに混ざるんですよね。でも一音一音が粒立って聴こえてくる。たまに音がきれいすぎて混ざらない箱があるけど、そうなると音が分離しているみたいに聴こえて、居心地が悪いんですよ。ラママはいい具合に音が混ざるから、演奏に熱が入りやすい(笑)。意外とステージも広いけれど、狭い箱っぽい音がするんで聴きやすい。ロックバンドとして、やりやすい箱ですね」
ライブハウスの動員数より、音源の再生回数を競う時代に
──最近はYouTubeやサブスクリプションが音楽の主流になっています。生で音楽が聴けるライブハウスとしてはどう感じていますか?
「僕がメジャーでバンド活動をやっていた90年代は、動員競争っていうくらいライブハウスの集客を意識していたんです。でも昔も、いろんな形で売れていった人がいるんですよ。
僕は槇原敬之くんが高校の後輩なんですが、彼は若いころに宅録で作った曲を僕にひたすらヘッドフォンとかで聴かせてくれたりしていたんです。僕は“なんだよお前、ライブやれよ(笑)”って先輩目線で偉そうに言っていたんだけれど(笑)。それくらいライブをやることが音楽活動みたいな部分がありました。でも2000年代以降は、配信やら、YouTubeやら、いろいろな発信方法に分岐していった。そこから価値観が変わっていきましたよね」
──今はライブハウスの動員よりも、再生回数の方が重要視されたりするのですか?
「そういうアーティストもいますね。若いミュージシャンと話すと、“目標は再生回数〇回です”って言うしね。サブスクやYouTubeの再生回数が上がるように頑張っている人も多いです。例えば、年間12回ライブをやろうとすると、毎回、毎回友達に連絡したら“お前、またライブか”って思われちゃう(笑)。でもある程度再生回数があれば、みんな曲も知っていて盛り上がれる。今は再生回数が1万回になったご褒美にライブをやるという人もいます。でも、生で見られる快感は替えがきかないと思うし、それがなくなることは絶対ないって思うんですよ」
──生で観に来る観客よりも、再生数のほうが重視されるのですね……。
「そういうところもありますね。昔は動員が少なかったら、ライブハウス側がアーティストを怒ったりもしていたんですよ。でも今の若い世代に言っても響かないんですよね。お客さんが3人から5人になるよりも、再生回数が1万になったほうがリアルにたくさん観られている気になるんじゃないですかね。でも僕にとっては、ライブで観てもらったほうがうれしいので、ブッキングマンとしてはそこが悩みどころですね」
──これからの世代の人たちが、ライブハウスに興味を持ってもらうのが大事そうですね。
「そうなんですよね。今の19歳、20歳くらいの子なんて、ちょうどコロナ禍だからライブハウスに行ったことがない子も多い。でも、それぐらいの年代がライブハウスに行き始めるころじゃないかな。ラママでは『U-19』(特定のライブで10代はチケット代無料、ドリンク代のみで入場できる)っていうシステムをやったりしています。アーティスト側も若い世代に観てもらいたいって思っているんですよね。僕も長年バンドをやってますが、お客さんの年齢層も一緒に上がっていく。でも若い子にライブを観てもらったらどう思われるのかというのは、やっぱり興味がありますね」
──私も10代のころからライブハウスに通っていますが、ライブハウスに行ったら会える友達がいて一種の社交場みたいになっていました。
「それはありますよね。普段わざわざ飲みに行ったり、遊園地とか行く仲じゃないのに(笑)、ライブで会う友達っていますね。僕の場合は、ライブで地方に行ったりもしますが、そんなときにわざわざ“飲もうぜ”って誘うのは何だけれど、“ライブやるから観に来ない?”っていうのは声をかけられる。ライブって、人と会うためのひとつのきっかけになりますよね」
売れたバンドマンは、まじめで忍耐強かった!
──石塚さんから見て、昔と今のバンドの違いは感じますか?
「そりゃあね、昔は圧倒的にオーラが違うような人がいっぱいいましたよ! 僕はバンドで1995年にメジャーデビューしているんですけれど、フラワーカンパニーズやTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェル・ガン・エレファント、2003年に解散した伝説のロックバンド)とほぼ同期なんですよ。フラカンも好きだし、ミッシェルはメンバーもシャイでいい人でした。やっぱり売れた人は、まじめで忍耐強かったですね。外から見るとむちゃくちゃそうに見える人でも(笑)、ちゃんとバンド内で話し合ったり、コミュニケーションをきちんと取れる人が多かったですね」
──そうなんですね。ミュージシャンの私生活は破天荒なイメージがありますからね。
「80年代のミュージシャンは、どれだけ無茶苦茶したかとか、誰がどういう伝説を作ったかみたいなのが武勇伝だった時代であったと思うんですけど……(苦笑)。今の人たちは“そんなことをしたらいけないっていう風潮。今はまじめにコツコツと音楽をやっている子が残っている気がする。でも僕はステージで無茶するやつが面白いって思っちゃうタイプなんだけれどね(笑)」
ライブハウスで生の人間を観ることの面白さ
──私もライブハウスならではの、生身の人間のすごさが観たくて足を運んでいたのもあります。
「社長(はたのさん)も言っていたけれど、やっぱりね、生の人間を観るっていうのは絶対に面白い! 僕も同感です。それと別ですが昔は、ライブ後の打ち上げは絶対でしたね。ベタな話だけれど、打ち上げって男性からすると、女の子と出会える場所だったりするからね(笑)。ラママの近くにはバンドマン御用達の居酒屋もいっぱいある。仲間内で30人か40人で飲むと、ちょっと場が荒れたり問題が起きたりするときもあるけど(笑)、人間っぽくて。それはそれで楽しかったんですよね」
──そういう文化も含めて、ライブハウスっぽいですよね。
「でも今は打ち上げもなくなりつつありますけどね……。って、なんの話だったけ?(笑)」
──(笑)。震災やコロナ禍など、何度もライブハウスは継続の危機に瀕していますが、それでも音楽活動やライブハウスのスタッフを続けてこられたのには理由はありますか?
「単純にね、楽しいですよね。僕もいろいろと他の仕事も経験してきましたけど、ライブハウスの仕事は別格だったよね。ライブハウスって、楽しさを求めていく場所。みんなが笑ったりするのが見れたり、ライブが終わってお客さんから“よかった”と言われたり、現場の空気がいいんですよ。だからずっと働きたいって思う。ライブハウスに来てくれた人から、“楽しかった”っていう言葉が聞けると、すごくうれしいですね。それって、最高なことだと思います」
(取材・文/池守りぜね)
■渋谷La.mama
渋谷区道玄坂1-15-3 プリメーラ道玄坂B1