今年で結成30周年を迎える「ソウル・フラワー・ユニオン」。バンドでボーカルとギターを務め、楽曲の作詞作曲も手がけているのが中川敬(57歳)。
ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーを中心としたアコースティック・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」(以下、モノノケ)では、阪神・淡路大震災の被災地でのボランティア活動や、海外遠征も数多く行ってきました。
インタビュー後編では、中川さんが作詞した『満月の夕』の誕生秘話や、ホームタウンである大阪の魅力についてお聞きしました。
世界各地での音楽活動から得た経験
──コロナ禍でのライブ活動はどうでしたか。
「やっぱり大変やったよ。特に弾き語りの地方ツアーはほとんど中止になって。収入激減で、子どもと一緒にサイゼリヤとか吉野家ばっかり行くロックスターな日々が始まる(笑)。もう、配信ライブをやりながら、ひたすら曲を作るしかないなー、ということになったね」
──ちなみに、音楽活動で行かれた国はこれまで何か国になりますか。
「(指折り数えながら)香港、北朝鮮、ベトナム、フィリピン、東ティモールの独立記念式典に、国後島。国後島は楽屋がムネオハウス(注:日本人とロシア人の友好の家の通称)やった(笑)。フランスは1年に3回行って、26か所でライブして。それぞれを語るだけで1冊の本になるね(笑)。パレスチナの難民キャンプ、台湾、アイルランド、イギリス……。ぱっと思い出しただけで11か国。もっとありそうやけど、すぐには思い出せないな」
阪神・淡路大震災の避難所で演奏しはじめた理由
──『満月の夕』は中川さんの作詞作曲ですが、誕生のきっかけは阪神・淡路大震災だったと伺いました。
「1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きたときは28歳で、今も同じところ(北摂)に住んでんねんけど、かなり大きな揺れで、立てかけてた鏡が割れたり本棚が倒れてきたり。実は朝まで飲んでて地震の瞬間も起きてたんやけど、最初は何が起きたかまったくわからなかった。街全体が1時間くらい停電になった後に、長田(兵庫県神戸市)の下町が、火に包まれていってるニュースを見て、そこからはずっとテレビばかり見て眠れない日々が始まった」
──そこから、被災地で演奏されたのはどうしてでしたか?
「震災当初は、被災地にボランティアで行くっていう発想がなかった。でも震災から1週間ぐらいたったころに、伊丹英子(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)が、“避難所で民謡を演奏しない?”って言い出した。“避難所という場所は、お年寄りや障がい者や貧困層がどんどん取り残されていく場所になっていくと思う。演奏した後に、おばあちゃんおじいちゃんと大変でしたねってお茶でも飲みながら交流したりできるんじゃないか”って。震災後の5年間は、避難所、仮設住宅、復興住宅でかなりの本数のライブをやった」
──音楽でボランティア活動をされようと思った原動力は何でしたか?
「もちろん若かったっていうのもあるけど、当時メジャー・レーベルと契約してて、メンバー全員が関西在住でソウル・フラワー・ユニオンしかやってなかった、というのは大きかったね」
──モノノケではどのような曲を演奏されていましたか?
「明治・大正年間のはやり唄、日本列島周辺の民謡(ヤマト、沖縄、朝鮮、アイヌ)、労働歌、革命歌を、三線(沖縄の三味線)を弾きながら歌う。バンド音楽的にも、三線やチンドン太鼓、チャンゴ(朝鮮の太鼓)とか、当時の自分たちには新鮮で、面白いことをやってるなーっていう実感の中で、ずぶずぶハマっていったね。日々、ソウル・フラワー・ユニオンを知らない人たちの前で演奏するのが刺激的で。ソウル・フラワー・ユニオンと違ってモノノケは、楽器や機材的にも身軽やし、海外にも行きやすい、というのがあった」
また余震が来るかも……。不安の中、見上げた空に満月
──印象に残っている避難所でのライブを教えてください。
「それはめちゃくちゃ多いけど、まずは初日、1995年2月10日に、地域の避難所になってた、西灘の青陽東養護学校でのライヴ。灘区は倒壊で亡くなった人がいちばん多い地域やったけど、俺らにとって、被災地での1本目のライブでね。行く前、演る前は、ライブがどういう雰囲気になるか不安やったけど、結果的にかなり盛り上がって。それはそれはホッとした。俺にとって、初めて三線を弾いて人前で歌った記念すべき日やねんけど、演奏後に片づけをしてたら一人のおばちゃんが俺のところに近づいてきて、 “ありがとうな”って話しかけてきた。“今回の震災で、子どもも夫も家族全員亡くなって、家もなくなって一人ぼっちになったと。泣きたくてもずっと泣けなかった”って」
──心情を考えるとつらいですよね……。
「“あんたが歌った『アリラン』(朝鮮民謡)で、やっと思いっきり泣けた、ありがとうな”って言われて。なんて返していいのかわからなくて“また来るから元気でおってな”くらいしか言葉が出てこない。そうしたら、逆におばちゃんが“兄ちゃん、頑張りや!”ってバーンと背中を叩いてきて。そこで、自分の音楽人生が決まったような、俺にとって大事な瞬間で」
──被災地での活動はどれくらいのペースで続けていましたか?
「初日が終わったその帰路、メンバーとも、“あまり深く考えずに、被災地での音楽活動を続ければいいんじゃないか”って意見が一致した。それから2日に一度、避難所で演奏する日々が始まった。1995年の2月14日が、ちょうど震災が起きた1月17日以来、一巡目の満月の夜でね。その日は、長田の南駒栄公園避難所のライヴで、普段は大阪から1時間で行ける道が大渋滞で6時間かかって。21時ごろに着いて、寒空の下で待っててくれたみんなに、“お前ら遅いぞ”とか言われながら、“すぐに演るわ〜”とか言いながら、速攻で演奏をして」
──音楽で癒やされていたのかもしれないですね。
「ライブが終わった後に被災者の人たちとドラム缶の焚き火を囲んで酒を飲んでたら、そこにいたみんながみんな、空を見上げながら“満月見るの、怖いな〜”って口々に言う。ちょうど最大余震がそろそろ来るっていう噂が高まってた時期で。その次の日に一気に書き上げたのが『満月の夕』なんよね」
──中川さんの経験から生まれた曲ですね。『満月の夕』はたくさんのミュージシャンにカバーされています。
「東日本大震災が起きたときに、TOSHI-LOW(BRAHMANのボーカル)からは、いろいろな話を聞いたんよね。阪神・淡路大震災のときに彼はまだ20歳くらいで、俺らの活動はピンとこなかった、と。ボランティア活動自体に偽善くさいものを感じたりしてたらしい。でも、2011年に東日本大震災が起きて、最初に浮かんだのは『満月の夕』やったって言ってた。被災地に救援物資を持っていくと、“兄ちゃん、ミュージシャンなら歌ってくれ”って言われるけど、パンクバンドだからそういう場所で歌える歌がない。そのときにパッと俺のことが浮かんだって。TOSHI-LOWもそこからアコギを持ってひとりで歌うようになっていった」
被災地を回りながら演奏する中で、いろんなことを学ばせてもらった
──被災地での演奏で、気をつけていたことはありましたか?
「避難所での演奏は、初めは室内ではやらないようにしてた。かなり寒い冬やったけど、音楽なんて聴きたくないっていう人のことも想定して、必ず外で演奏をしてた。そんな中、ボランティアの方から“避難所の中で演奏してください”と言われるようになって。それが3月4日、長田区野田高校体育館避難所で、めちゃくちゃ盛り上がったんやけど、いちばん後ろのほうに座ってた2人のおばあちゃんが演奏している壇上のほうに全然、向かなかった。気になったヒデ坊(伊丹英子)が演奏後に近寄って話しかけてみたら、足がなくて置かれてる状態やったんよね。実は、倒壊した家屋の中で長時間挟まれてしまった、足を切断したお年寄りが多かったんよね。避難所の中で演奏してください、というのは、身体上、野外に出られない人がいる、ということやった」
──中川さんにとって忘れられない出会いがいろいろとあったのですね。
「あの数年間、被災地を回りながら演奏する中で、音楽と場にまつわる、あらゆることを学ばせてもらった。“うたのありか”みたいなことをね」
ずっと住み続けている大阪の魅力
──中川さんは今も大阪にお住まいなんですよね。上京しようと思ったことはなかったですか?
「これは成り行きかな。たまたまずっと同じ場所に住んでるだけみたいな感覚。なにか大きなタイミングがあれば、関東に出て来てたかもしれないけど、そういうこともなかったし。もう東京に住みたいとは思わなくなったなー。家賃も駐車場代も外食費も高すぎるし、みんな仕事ばっかりしててしんどそうやんか(笑)。今住んでる場所が、山や川が近くにある、適度に田舎で、いい具合に音楽活動とメリハリがつくんよね」
──ずっと住んでいらっしゃる大阪の中で、好きな場所ってどこですか?
「甲子園球場(笑)。コロナ禍になってからは行けてないけど。中川敬にとっての甲子園球場は、いわばエルサレム的な場所ですね(笑)。関西って、かなり小さな空間に、滋賀県やら奈良県やら京都府やら大阪府やら兵庫県やらが密集してあって、コロナ禍以降特に、車で、自然の中に入っていくときが至福の時間やね。時間が空いたら、結構車でうろうろしてます」
──関東と関西ではお客さんの盛り上がりが違ったりしますか?
「それは一口には言えないかな。やっぱり条件がそろえば盛り上がるよね。大阪と東京の比較ではなくて、日本と海外という視点になると、日本人はシャイやね。みんなが盛り上がれば盛り上がる。みんながおとなしかったらおとなしい。海外で、特に知られてないモノノケが演奏すると、欧州であろうが、アジアであろうが、めちゃくちゃ盛り上がるんよ。やっぱり民族性の違いはある。ただ、一見盛り上がってないように見える音楽空間でも、聴いてる人ひとりひとりの胸の中には熱いものが流れてたりするんよね。ロック・バンドであろうが弾き語りであろうが、それぞれに、自由に楽しんでほしいね」
◇ ◇ ◇
気さくな関西弁で当時の心情を包み隠さず語る中川さん。その人間性がにじみ出た音楽だからこそ、人々の胸を打つのかもしれません。
(取材・文/池守りぜね、編集/小新井知子)
《PROFILE》
中川敬(なかがわ・たかし)
1966年3月29日生まれ、兵庫県西宮市出身の日本のミュージシャン。ニューエスト・モデルなどのバンド活動を経た後、’93年にソウル・フラワー・ユニオンを結成。ロック、アイリッシュ、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエなどさまざまな要素を貪欲にとりこんだ雑多な音楽性で高い評価を得る。’95年にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットを結成し、被災地での出前ライヴを開始。そのほか別ユニット活動も精力的。2011年にリリースしたアルバム『街道筋の着地しないブルース』がファースト・ソロ作。
★2023年7月5日にソロ・アルバム第5弾『夜汽車を貫通するメロディヤ』発売!