人生100年時代といわれているものの、実際のところ、何歳まで好きなことができるだろうか? こぎん刺し作家で、指導者としても活動中の高木裕子さんは現在88歳。3月も、日帰りで静岡と名古屋の教室に赴いたばかりだという。
こぎん刺しとは、青森県津軽地方に伝わる伝統的な刺し子技法のこと。かつて、貴重だった布を補強するために、衣服に幾何学模様の刺繍を施したのが始まりだ。
麻布の粗い目に白い糸を刺すことで布の耐久性と保温性を高めていたが、次第にさまざまな模様刺しが生まれ、装飾性が加わっていった。
高木さんが旅行先で見つけたこぎん刺しに魅了されてから、もう55年。2年前からは、YouTubeやInstagramを始め、美しい作品を紹介し、刺し方のコツなどを発信している。
高木さんのこぎん刺しとの出合いや、独自に進化させた作風の秘密、次世代に伝えたいものなどを聞いた。
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高木さんとこぎん刺しの出合い
北海道生まれで、東京の大学に進学、就職した高木裕子さんがこぎん刺しとの運命的な出合いを果たしたのは、1967年のこと。当時32歳の高木さんは、友人に誘われて青森・十和田湖に旅行に行き、ホテルの客室にあった1枚の刺繍が目に留まった。
「ホテルの人に聞くと、こぎん刺しと教えてくれました。でも、“地元ではもう誰もやっていません”って言うんです。
これだけ素晴らしいものをやらないなんてもったいないと思い、誰のところに行けばこぎん刺しのことがわかるかを聞いてみたところ、民俗学研究家の田中忠三郎さんを紹介してもらったんです」
早速、田中さんのもとを訪れた高木さん。「東京の人がこんなことやるかな?」と、こぎん刺しが施された小さな切れ端を手渡された。
持ち帰ってみたものの、どうやって刺しているのかがわからない。そこで高木さんは、切れ端から糸を1本ずつ抜いては目を数え、方眼用紙に書き写してみた。
「図面に起こしてから自分で刺してみて、田中先生に図面と作ったものを両方見せてみたら、“東京の人は違うな、地元の人はそんなこと考えない”と驚かれました」
独学のこぎん刺しを人に教えるようになるまで
この作業の繰り返しで、独学でこぎん刺しを学んだ高木さんは、弘前などでこぎん刺しの普及に尽力していた前田セツさんが東京で教室を開いていることを知り、約6か月通って、自ら身につけた技術を再確認した。
そのころ、千代田区から「区民に教えてほしい」と依頼を受け、こぎん刺しに興味を持った看護師からも、「うちの病院内でも教えてほしい」と声がかかることに。高木さんは会社員を続ける傍ら、こぎん刺し講師として人に教えるようになっていった。
「そのあと、NHKカルチャーセンターからも声がかかって、教室を開くことになりました。今でも東京や名古屋、神戸などで教室を続けています」
NHKカルチャーセンターでは当時、日本の文化を伝えるために、毎年のようにヨーロッパ各地で「日本文化祭」というイベントを行っていた。高木さんにも声がかかり、たくさんの作品を作ってヨーロッパ各地に赴き、作品を発表したり、現地でこぎん刺しの教室を開催したりした。
「1年に2回はヨーロッパに行っていました。たくさんの作品を持っていって、それを行った国に全部あげてくるから、帰りは毎回手ぶら。私が作った作品はフランスの国立近代美術館やルーヴル美術館にも収蔵されているようです」
「東海道五十三次」創作のきっかけは現地の人の言葉
1987年には、自身が主宰する「こぎん刺し木曜会」を東京・人形町に設立。こぎん刺しに興味を持つ人たちが集まり、展覧会を開くまでになった。銀座で開催したとある展示会での出来事が、高木さんの作品づくりに大きな影響を与えることになる。
それは、開催期間中のこと。とある来場者が、高木さんの作品を見て、「作品はいいものだけど、あんたはよそものだからな」と言った。
「私がいくら頑張っても、よそものなのかと。そんなことを言われてカチンときました。教室では伝統的な技法を教えていたのですが、だったら、東京のこぎん刺しを作ってやろうと思ったんです」
そこで高木さんが考えたのは、こぎん刺しの手法を使って、絵画を表現するということ。題材は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」に決めた。浮世絵に刷られた藍色の美しさに魅せられたからだ。
見本となる浮世絵を見ながら、色糸を用いてひと針ずつ布に刺していく。どの模様を用いるかは、高木さん次第。さまざまな模様を組み合わせることで、質感や遠近感などを表現した。
古典的なこぎん刺しは紺地に白糸というモノトーンが基本だが、高木さんの絵画的表現は、色彩豊かで、唯一無二のものとなった。
「53枚完成したのが、コロナが始まる少し前だったので、35年もかかりました。今はこの作品を一括で管理し、展示してくれる美術館や企業があればと受け入れ先を探しているところです。
実は東京都にも相談したのですが、“こぎん刺しは東京発祥ではないので、収蔵することができない”と断られてしまいました。ずっと東京で独自のこぎん刺しを目指してきただけに、とても残念です」
こぎん刺しのはんてんが永六輔さんのトレードマークになるまで
独自の表現を極めていった高木さんのファンは、教室に集う生徒たちだけではない。放送作家の永六輔さんもそのひとりだった。義理の弟が演劇をやっていて、その縁で永さんと知り合った。
「永さんのような粋なおじさんが、舞台に立ったり、海外に講演に行ったりするときに、こぎん刺しのはんてんを着てくれたらいいんじゃないかと思って作ってみたら、永さんも気に入ってくれたんです」
永さんも、テレビ出演や海外での仕事のたびに、高木さんに声をかけるようになり、その都度、新作を制作。こぎん刺しのはんてんは、永さんのトレードマークのようになった。
その付き合いは約50年にも渡り、2016年に永さんが亡くなるまでに制作したはんてんは、35枚にも上ったという。
現在88歳、インスタグラマーとしても活動する
2020年に世界中で新型コロナウイルスが猛威をふるうようになり、高木さんが主宰する「こぎん刺し木曜会」に通えなくなる生徒が増えた。時間ができた高木さんは、高木さんの活動を支える木曜会スタッフのすすめもあり、SNSを始めることにした。
教室に来ることができない全国各地の生徒との交流の場になれば、ということとは別に、もうひとつ目的があった。
「高木先生が長年培ってきたこぎん刺しの技術や、先生が残した図案などは著作物として守られるべきなのではないかと思うのですが、青森で受け継がれてきた古典柄も踏襲しているため、著作権的には境界が難しかったんです。
それならむしろ積極的に情報発信し、作家性を前面に出したほうがいいんじゃないかと考えました」(木曜会スタッフ)
特に、InstagramとYouTubeの持つ影響力に着目。高木さん独自の図案や生徒の作品などを紹介し、ライブでは刺し方のコツなどを惜しみなく披露。ときどき雑談コーナーもあり、高木さんの素朴な人柄を垣間見ることができる。
「これからは紙の本じゃなくて、こういう時代なんだなということを感じます。動画を見て誰かの参考になればいいし、生徒さんからコメントがつくとうれしいです」(高木さん)
今後の人生とこぎん刺しのこれからを考える
高木さんがこぎん刺しに出合ったのは30代のころで、独学で学びながら人に求められて教えるようになったが、当時勤めていた会社は60歳の定年まで働き続けた。
つまり、60歳までは休みなどを使ってこぎん刺し教室を開いたり、ヨーロッパでの発表を行っていたということになる。高木さんが、こぎん刺し作家、指導者を専業にしたのは定年後のこと。
「こぎん刺しが楽しかったので、70歳、80歳のときもやめようとは思わなかったんだけど、さすがに88歳のいまは、引退を真剣に考えています。こぎん刺しを50年以上もやっているので、こぎん刺しの布や糸の目数はちゃんと見えます。
認知症になってからじゃ遅いから早めにやめるべきなのか、逆にやめてしまったら認知症になってしまうのか、悩ましいところです」
高木さんのもとで長年学び、講師となった人たちが「木曜会」をはじめ、さまざまな場所でこぎん刺しを教えているが、技術の継承以外にも気がかりなことがある。それは、高木さんがこだわる、こぎん刺し専用の布や糸の確保だ。
かつて、こぎん刺しに適した布や糸を東京で入手するのが難しく、染色職人や工場と直接交渉し、色鮮やかで刺しやすい糸や布を作ってもらっていたのだ。
「この糸や布は、教室以外では手に入りにくいです。糸や布の職人や工場の人も高齢化しています。布も今までの布がなくなってしまったので、関係業者や職人さんを辿り、開発費なども負担覚悟で、新しいものを作ってもらっているところです。
私がやめるにしても、こういった材料づくりも確立してからでないと、生徒さんに安心して譲れません」
引退を真剣に考えるようになったものの、毎日「木曜会」に顔を出し、そこに集まる生徒との会話や、作品づくりのアドバイスを行っている高木さん。4月にはアメリカで刺し子を広めている先生とその教え子が、こぎん刺しを学びに高木さんのもとを訪れ、交流した。
また、5月には東京都美術館で悠美会国際美術展が開催され、「こぎん刺し木曜会」の生徒の作品が勢揃いする予定だ。
「引退を考えているんだけど、次にもう一度大きな作品をやってみようかなとも考えています。果たしてどっちが先なんでしょうね(笑)」
(取材・文/吉川明子、編集/本間美帆)
【PROFILE】
高木裕子(たかぎ・ひろこ) 北海道出身。1967年、青森でこぎん刺しと出合い、以降独学で学び、文化と技法の継承・普及に努める。1968年コルマール市(フランス)で開催のNHKセンター主催日本文化祭に参加し、1987年に自身主宰のこぎん刺し教室「木曜会」を創立。2002年には東京都美術館にてJIAC国際美術展に出展し、ビッグアーティスト賞受賞。以降、数々の展示会に出展。著書には『ちょっと素敵なインテリア~こぎん刺し~』 、『伝統のこぎん刺し こぎん刺し図案集165パターン」』(マコー社)などがある。
Twitter→@kogin_mokuyokai、Instagram→@kogin_mokuyo、YouTube→@mokuyokai
日程:2023年5月3日(水)~5月10日(水)休館日は無し
開場:9時30分~17時30分(入場は17時まで)
※5月3日の入場14時~
※最終日は14時30分閉場(入場は14時まで)
会場:東京都美術館・2階 第4展示室
台東区上野公演8-36 JR上野駅・公園口改札
公式サイト:https://www.yuubikai.com/