3年ぶりに地元である木更津で『氣志團万博2022』を3days開催し、大成功をおさめた氣志團。2023年1月1日に7年ぶりのニューアルバム『THE YANK ROCK HEROES(※)』発売、1月3日は結成25周年を記念した日本武道館公演とその勢いは止まらない。
前編に続き、氣志團のボーカル・綾小路 翔さんへのインタビュー後編では、氣志團結成までのいきさつや、ジャンルを超えたミュージシャンやアイドルとの交流について語ってもらいました。
(※YANKの「A」は丸囲み、HEROESの「O」はスラッシュありが正式表記)
【前編→氣志團・綾小路 翔、憧れのYOSHIKIに学ぶ“言い切る強さ”「俺たちは“ヤンクロックヒーローズ”なんだ! って」】
自信過剰で上京するも、周りに圧倒される日々
──『THE YANK ROCK HEROES』は、あらゆるジャンルからのモチーフが楽曲に生かされています。先ほど、自分の知識を周りと共有できないと語っていましたが(前編参照)、そんな翔さんが憧れていたヒーローは誰でしたか?
「やっぱり僕にとってはヒムロックだったり、hideだったり、ベンジー(注:元BLANKEY JET CITYの浅井健一)だったり……。憧れましたよねぇ。不良だけれどスタイリッシュ。独特の世界観を持っていて、世間のモードとはかかわらずに自分の世界観だけを描き続ける。そういう『路上のカリスマ』的な存在に心惹かれていました」
──ロック界のレジェンドみたいになりたかったのですね。
「いつの時代も、それこそ矢沢永吉さんの“成り上がり”じゃないけれど、そういう孤高の存在に男の子たちは憧れるわけなんですよ。僕なんて本当、“おらが村のファッショニスタ”を気取っていて(笑)。東京に出るまでは、自分がいちばんロックに詳しいと思っていたし、どうやらセンスも抜群に違いない、という根拠のない自信に満ちあふれていたんですよね。“おーい! おまえら! 俺だよ! 俺! サクッとこの世を変えに来たぜー!”ぐらいのテンションで上京してきたんですが、その出所不明の謎の自信みたいなものは、当然あっという間に、モノの見事に打ち砕かれまして(笑)」
──打ちのめされるような出来事があったのですか?
「とにかく東京に行きたくて、就職で上京しました。最初の2年間は、バンド活動はしていなかったですね。とりあえずとっかかりのつもりで就職したのですが、持ち前の責任感の強さで、意外と仕事はちゃんとやっていました(笑)。バンドなんかやる暇もなかったけど、せっかく東京に来たのだからとライブやイベントにはひたすら行きまくっていました」
──まずは人脈作りを始めたのですね。
「なんせジ・田舎者ですからね(笑)。憧れていた催しには、必死こいて足しげく通っていました。そういう場所に顔を出していくうちに、同世代で有名になり始めていた人たちにも出会うようになるわけです。当時の僕は、きっと勝手に思い描いていたんでしょうね。自分もそういうところで誰かに声をかけられたりする、シンデレラストーリーが待っているんじゃないかと……」
──でも翔さんは、その中でも目立っていたのではないですか?
「もちろん、一生懸命、目立つ格好をしたりとかしていましたけれど、目立つだけで人気者になれるのなんて、田舎の高校の文化祭ぐらいまでだと知るんですよね。俺はただの路傍の石だっていうことに結構早い段階で気づきました。ライブに行ってもそうだったんですよね。ステージ上の人物と、自分との圧倒的な違いは何だろうって、2年間ずっとずっと考えていました」
氣志團のメンバーとの出会い、志村正彦さんとの思い出
──そこからどのような経緯で氣志團結成となるのでしょうか。
「雪之丞(白鳥雪之丞・ドラム)の存在は大きかったですね。彼とは中1からの付き合いですが、僕とはもう正反対の性格で、コミュニケーション能力が高くて物怖じしない性格。自分が心惹かれたものにはとことん貪欲にいくタイプで。上京してから彼は6つくらいバンドをかけもちしていて、僕にとって死にたいぐらい憧れていたライブハウスに出演したり、全国ツアーに出たり。その姿を見て、何というかジェラシーみたいなものを抱いていましたね。その辺りにもいろいろなストーリーがあるのですが、それはともかく、1997年の4月、彼を含めて、いや彼を支えに氣志團を結成しました。
そこから、僕はライブハウスでアルバイトを始めたのですが、そのバイト先にランマ(星グランマニエ・ギター)とトミー(西園寺 瞳・ギター)がいたんですね。彼らはライブハウスの先輩で、それぞれバンドを組んでいて。彼らのレコーディングやライブを見て、完全に打ちのめされました。ただのカッコつけだった僕にはたぶん、何年かかっても書けないであろう曲を既に演奏していたんです」
──その2人が加入して、今の氣志團の原型となるのですね。
「そこに至るにはもうしばらく時を要するのですが(笑)。何しろ、僕からしたら太刀打ちできない演奏力があった。そういうショックを、ずっと受けていくんですね。バイト先のライブハウスで、ランマ君が辞めた後に僕のパートナーとなったのが、後のフジファブリックの志村正彦君。当時、まだ18歳だった彼が作った音源を聴いて、あまりにも素晴らしくてショックを受けた。僕も覚悟を決めてバンド活動をして、ある程度のポジションになっているときだったけれど……やっぱ本物っているなと。正彦の作る音楽を聴いて、“少なくとも僕は、ロックの女神に選ばれていない側の人間なんだな”と改めて思い知ったのを覚えています」
──そこから、どのようにして現在につながるバンド活動を進められたのですか?
「大体ロックに魅せられた中高生は皆、偉大なるミュージシャンの伝記を読んでは必死こいて自分との共通点を見つけて、“俺と同じことを思っているから、やっぱり俺はこっち側の(選ばれた)人間なんだ”って思いこむ。僕もその謎の選民意識をもって生きてきたけれど、東京に来て2年くらいで東京湾ぐらいの大きさの自信が、水たまりよりも小さくなってしまったんですよ(笑)」
──自信を打ち砕かれると、そこから奮起するのは大変ですよね。
「当時を振り返るとね、本当にひねくれていましたね。1998年にメンバーになってくれたトミーは、当時は別のバンドもやっていたのですが、お兄さんのように僕のことをすごくかわいがってくれた。毎晩のように飲みに連れて行ってくれたけれど、僕があまりにもネガティブな発言しかしないので、“なんて夢も希望もない若者だろう”と思ったらしいです(笑)。バンドをやるなら“絶対にプロになりたい”とか、“音楽で飯を食っていく”っていう夢を抱くのが当然なはずなのに、あのころの僕はまったく興味がなくて」
売れるために必要なのは、順番待ちしないこと
──翔さんを見ていると、当時から活躍されるような片鱗があったと思いますが……。
「商業音楽の世界では、自分は才能、ルックス、すべてにおいてプロになれる要素がないことがわかりきっていたので。当時、ランマ君や松(白鳥松竹梅・ベース)がやっていたバンドはめちゃくちゃいいバンドだったんですよ。だけど“彼らですら、誰にも知られることなく消えていくだろうな……”っていう想像ができた。おそらく数年間ぼんやりとバンド活動をして、何を残すわけでもなく実家に帰っていくのだろうと。ただ、そういう才能があるのに、自分たちの表現の仕方がわからない人たちのために、僕がマネージャーにでもなったら何かを変えられるのでは? と思い始めていたんです」
──音楽的才能ではなくて、プロデュース力の部分ですよね。
「音楽をやる連中には、中2病、高2病、あと大2病っていうのがよく見受けられるんですけれど(笑)。そういうものに縛られて、結果的に世の中に何の爪痕も残さずに消えていくミュージシャンがたくさんいるんですよね。逆に言えば、大した才能もないのにコミュニケーション能力やプロモーション力の強さで、そこそこ売れるっていうパターンもたくさん見てきた。だから、どういう方向性で行くか悩んだんです」
──自分のバンドをやるか、プロデュースするかで迷ったのですね。
「ランマ君たちのバンドをプロデュースすれば、うまくいきそうな気がしたけど、結局僕自身がバンドをやりたいっていう気持ちを捨てられなかったんですよね……。でもバンドをやるとなると、多くのものを捨ててからじゃないとまた同じ結果になってしまうと思ったんです。(突然思いついたように)あっ、つい最近、静岡にライブを観に行こうと思ったんですよ。僕は計画性がないのでいつも行き当たりばったりで、思い立ったらすぐ行くんです」
──……はい。
「案の定、日曜日の品川駅は新幹線の切符売り場の窓口が死ぬほど並んでいた。ただ、券売機は空いていて。でも、そこ(品川駅)まで『Suica』のアプリを使って行ってしまうと、新幹線のチケットは窓口でしか買えないんですよ。券売機には人が並んでいないのに、券売機は『Suica』のカードじゃないと使えない。こんなにアプリを推進しているのに、矛盾したシステムだなって思って(笑)。あと10分で新幹線に乗らないと発車しちゃうのに、窓口の列が進まなくて、“これはもう絶対に無理だろうな”と思ったんです」
──結局、ライブには間に合ったのですか?
「次の新幹線を調べたら、開演時間の10分前に着く電車が見つかって。その駅からはタクシーで会場まで行けば間に合うので、『スマートEX』というアプリ(注:東海道・山陽・九州新幹線のネット予約サービス)をダウンロードして、そこから切符を購入して観に行けたんです。つまり、ちょっと機転を利かせれば行列に並ばなくてもいいことって、実はたくさんある。バンドもそう。人気の行列に何十年も並んでいても、一生順番は来ない」
──先ほどの話につながるわけですね。
「例えば、僕らが憧れたバンドで言ったら、BLANKEY JET CIY、Hi-STANDARD、eastern youth、GUITAR WOLFがいて……あ! みんなスリーピースだ! って、それは置いておいて(笑)! 僕たちは同じシーンの中で、みんなぎっしり並ぶんです。彼らと似たような音楽や、ファッションをまねして。もう全然、前が見えないくらい大行列ですよ。僕はもう“この人たちみたいにはなれない”っていうことを己に言い聞かせていましたね。これは重要だった。カッターナイフとボールペンで自ら腕にタトゥー入れるぐらいしないとね。“おまえは違うよ”と(笑)。ときどき、勘違いするからね(笑)」
──でも氣志團や翔さんに憧れている人もいると思います。
「たまに、“俺もああいうロックヒーローになれるかも”って勘違いする瞬間もあるんです。人生において、何度も何度もあるんですけど。そのたびに、見えないタトゥーを思い出して“お前は選ばれていない”って言い聞かせているんですよね。ただね、みんな、俺ぐらいには誰でもなれるよ。マジで。トンチひとつで綾小路 翔にはなれます(笑)」
──翔さんは謙虚なのでは……。
「たぶん、彼らロックヒーローはこう言うと思うんです。“俺たちだって選ばれてないよ”って。でも、そうじゃない。その言葉に踊らされちゃいけない(笑)。だから俺たちは、自分たちにしかできないことをやる。僕らを求めてない人たちからしたら、いい迷惑でしょうけど(笑)」
──今のようにプロとして活動できることに対しては、どう感じていますか?
「ただ、氣志團で生きていく、ということだけは確固たる目標というか、早い段階でそうならなきゃいけないって思っていましたね。当時のロックバンドがよく言う“メジャーに行きたい”っていうのとも違っていたというか。氣志團のスタートは歌詞も歌もないインストゥルメンタルバンドで、華やかでキャッチーな音楽ではなかった。そこにポエトリーリーディングが乗ったり、奇声を上げるとか、必要のないメンバーがいるとか、傍目にはわけがわからない状況だったんです」
──でも氣志團の登場は、ルックスとともにインパクトがあったと思います。
「あのころの氣志團は、誘われれば何にでも参加していたイベント・ビッチだったんですが、頭に辞書をのせて、哲学みたいなことを連呼しながら松明(たいまつ)を持ってステージを練り歩く前衛的な劇団のパフォーマンスを見て、“なんだ? アレ?”とか言ってたけど、今思えば同じ穴のムジナだったと思う。そこからスタートして25年。思えば遠くへ来たもんだ、ですよね。世間からしたら“まだ氣志團やっているんだ?”みたいな感じなんだと思うかもだけど(笑)。でも“俺たちはロックバンドを基軸にした、元祖2.5次元地下アイドルなんだ!”っていうのに原点回帰した瞬間が、今回のアルバムにつながりますね」
氣志團の存在は、若手にとってはロートル!?
──氣志團は、『氣志團万博』もそうですがアイドルから演歌までありとあらゆるジャンルの方たちと対バンされていますよね。
「そういえばこないだ、マキシマム ザ ホルモンと氣志團がデビュー前から対バンしていることを初めて知った業界の方に、“そんな2組が一緒にやっていたんですか!? ”って驚かれたんだよね。僕的にはエルレガーデンとブラフマンぐらいの関係性のつもりだったんだけど(笑)」
──驚きで言うと、若手バンドのキュウソネコカミと対バンしたときは、つぶしにかかっていませんでしたか?(注:キュウソネコカミとの対バンの際、氣志團は普段のヤンキーファッションを脱ぎ捨て、キュウソネコカミの服装で出演)
「いやいやいや、そんな力はないです(笑)。ただ、洗礼ですよね。いいバンドにはやりますよね。ももクロ(ももいろクローバーZ)のときも、ゴールデンボンバーもそうでしたが、傑出した才能に満ちあふれた若者たちの前に立ち塞がる、これまでのセオリーが通じないイカれた相手ではありたい。僕らもグループ魂とかニューロティカという先輩バンドから、ガツンと鼻を叩き折ってもらった経験があるからね」
──先輩バンドから受けた洗礼を、氣志團も与えているのですね。
「氣志團は、格闘漫画の4戦目ぐらいに出てくる、一筋縄ではいかないロートル選手なんですよ。鳴り物入りでデビューした主人公に対して、かませ犬のように登場する。主人公が繰り出すすごい一発が当たれば余裕でノックアウトできるはずなのに、今回の試合はどうやら違う。ロートルはのらりくらりといろんな技を使って主人公を苦しめる。老獪(ろうかい)なテクニックで翻弄したかと思えば、リングサイドにお腹をすかせた自分の子がいる様子も見せたり……。“パパを殴らないで!”みたいな(笑)。でも主人公はその1戦で一気に伸びるんですよ。強いやつを撃破するのは才能でいけるけれど、そうはいかないのがプロの世界。アマチュアはテクニックだけでなんとかなるけれど、プロはそうじゃないんだよっていう。って、何目線だ(笑)!」
──相手が強ければ強いほど、本気でぶつかりにいくんですね。
「『PRIDE』に出場していたころの五味隆典選手的なね。世界の強豪相手に破竹の10連勝で世間の度肝を抜くような天才が時に現れる。“誰がこの人を止められるんだろう?”みたいな。そういうのはあのころのキュウソやももクロにビンビン感じました。“こいつら、超つえーな”って。バンドであろうが、アイドルだろうが、関係ない。みんな九死に一生を潜り抜けてきた百戦錬磨の猛者たち。だからそこでわれわれに何ができるだろうか? って考えるんです。対バン相手にはルール無用でやりますね。だけれど、死闘を繰り広げた相手とはずっと仲もいいんです」
「氣志團万博」の自身の出演料はゼロ! それでも続けるワケ
──「氣志團万博」では、バンドだけではなくアイドルや演歌など幅広いジャンルのアーティストが出演されています。普段から、どのようにアンテナを張っているのですか?
「僕はお芝居やお笑いでも、少しでも気になったら生で観に行かずにはいられなくて。好奇心だけで生きているんですかね。たとえば狂言とかもね、知識もルールもマナーも知らずに観に行ってしまうんです。そういえばこの前は『bpm』っていうエンターテインメント・ユニットのお芝居を観に行ったんですが、あまりにも面白くて感動しました。面白すぎて凹みましたね。あとはちょっと前だとBUCK-TICKを静岡に観に行ったり、NEWSを仙台まで観に行ったり……楽しかったなぁ。素晴らしいステージを探しに旅をすることがいちばんの幸せです」
──『氣志團万博2022』は、氷川きよしさんや香取慎吾さんなどバラエティー豊かな出演者でしたが、プロデューサー業は大変ではなかったですか?
「観に来てくださっている皆様や、出てくれている人たちの力だけでやっているので、僕なんかそれにがっつり乗っかっているだけでして。他人のふんどしで相撲を取ることに関しては横綱級です。すみませんホント……」
──MCでは「フェスをやってもあまり儲からない」とおっしゃっていましたが……。
「本当に、自転車操業とはうちのことですね(笑)。“全部、来年の万博で返しますんで”って頭を下げているんですよ。借金取りからの逃げ方のそれですからね。僕らも1円ももらっていないですからね」
──翔さんはフェスグッズのプロデュースをされたり、出演者のブッキングなどもされていますが、ご自身のギャラはゼロなのですか……。
「それでも全然足りないっていう(笑)。ただ、自分らの働きは、日本の音楽文化に対する寄付や支援だと思ってますよね。みなさんも『氣志團万博』へのお金は世のため人のためだと思ってもらえれば(笑)。でも音楽を止めてはいけないって思いますね」
──最後にお聞きしたいのですが、翔さんは、ライブ中に水を飲まないと言っていましたが、今も飲まれないのですか?
「90年代後半のライブハウスって、何かスカしたバンドが多くて。うつむきながら独りよがりの演奏をして、1曲終わるたびにハアハア言って、後ろ向いて水飲んで。やっと口を開いたかと思ったらライブの告知。何月何日どこどこ、何月何日どこどこ、そして知らん名前の友達バンドの、知らんタイトルの企画をちょっと得意げにボソボソ告知。で、“ラストは新曲です! 聴いてください!”……知らんがな! って憤っていたんですよね。ライブハウス店員だったから特に。そんなバンドばっかりだった。
なので、氣志團を始めるときに、“ロックの女神様、もしいるなら聞いてください”、“僕はどんなに激しいライブをしてもマイクでハアハア言いません”、“ライブ中によくわからないタイミングで水を飲みません”、“会場にいる人達にとって、知りもしない新曲を演奏した後に、今の新曲でした、みたいなくだらないMCはしません”、“だからどうか、僕が神聖なるステージに上がることを許してください”と誓ったんです。なので今も水を飲まないし、全力で歌い踊った後もハアハア言いません」
──水を飲まれないのは心配ですが、その熱意はライブを観て伝わってきます。
「才能のあるバンドはいる。選ばれたやつもいる。そいつらはこの屍(しかばね)たちを超えてゆけと。しかし俺たち氣志團の使命は、ロックを利用したクソ野郎たちを消す、連中を一掃するために生まれたんだと。マスターベーションみたいな出し物で800円から1200円のチケット代をむしり取ろうとする不届きなバンドたちを、このライブハウスから1匹残らず駆除するために生まれたんだと。そして“最後は俺たちもおまえらと一緒に消えるから”っていう。そんな哀しくも潔いテーマで始まったんですよ。氣志團なんてバンドはね……(笑)」
──氣志團は消えないでほしいですが……。
「不思議ですよね。こんなご時世にわれわれみたいなバンドが存在することが。ときどき深夜の牛丼屋とかでふと思うんです。“俺、こんなニッチなバンド一本で今日まで生きて来たのか。この生き馬の目を抜く音楽業界で。この大東京で。しかし今更だけど牛丼と紅生姜って合うな。うわ〜幸せだな~”と。すべてはファンのみなさんと、心優しきバンド仲間たちのおかげですね。あれ? なんか最後かなり強引にいい話っぽくしてすみません! このインタビュー、こんな内容でよかったですか?(笑)」
◇ ◇ ◇
終始、笑いが絶えないインタビューから一転、撮影でのロックスターの風格を感じさせる佇(たたず)まいは、「カッコいい!」のひと言。唯一無二のアーティスト・綾小路 翔の躍進はまだまだこれからも続いていく。
(取材・文/池守りぜね)
《PROFILE》
綾小路 翔(あやのこうじ・しょう)
1997年に千葉・木更津で結成されたロックバンド「氣志團」のボーカル兼リーダー。2001年にメイジャーデビューを果たし、『One Night Carnival』『スウィンギン・ニッポン』などヒット曲を連発。2012年からは地元の千葉県で大規模な野外イベント「氣志團万博」を主催し、ほかのフェスとは一線を画するラインナップで多くの音楽ファンの支持を集めている。アーティスト活動のほかにも、DJや執筆、プロデュースなど幅広いジャンルで活躍。