ニューウェイヴバンド『ロマンポルシェ。』のボーカル、掟ポルシェさん。掟さんが曲の合間に繰り出す説教の面白さが話題となり、ライター業も開始した異色のミュージシャンです。近年はアイドルやプロレスの豊かな知識を生かしたコラムを雑誌やウェブ媒体で連載しています。現在54歳の掟さんに、多彩な活躍の原点とこれまでの軌跡を聞きました。
学校では生徒会長。パンツ男が主役の映画を仲間と制作
──掟さんの子どもの頃って、あまり想像がつかないのですが、どういう子でしたか?
「北海道の留萌市っていう田舎で育って、大人に気に入られるのが大好きな子でしたよ。自己顕示欲を出そうと思っても、当時は個人で発信できるメディアがないじゃないですか。しょうがないから学校内で目立つしかない。そう思って中学校はずっと生徒会長やっていました」
──なぜ大変そうな生徒会長に立候補したのですか?
「生徒会長になると、周りからなめられないですむんですよ。なんとなく生徒会長だから偉い人なのかも……って思われて、学校内で勝手に地位が得られるんですよね」
──それは賢いやり方ですね。その頃から音楽活動はされていたのですか?
「俺が中学2年生の頃、’82年にザ・スターリン(注:過激なライブパフォーマンスで話題となったパンクバンド)がメジャーデビューしたんです。音楽雑誌の『宝島』でスターリンの記事を読んで、“きっと宝島に載っていることが、東京のすべてなんじゃないか”って勘違いして、周りのみんながパンクを聞き始めるっていう現象が起きたんですよ。でもパンクと同時にいわゆるニューウェイヴって言われる音楽も大好きだったんです。パンクのレコードを買うのは友達に任せて、自分はニューウェイヴのレコードばっかり買ってました」
──なかでも影響を受けた音楽はありましたか?
「6歳上の兄貴の部屋に『YMO BOOK OMIYAGE』(注:’81年発売のYMOの写真集)っていう本があったんですけど、その本の中で、坂本龍一がお気に入りのアルバムを何枚か挙げていた。“教授がいいって言ってんだったら買うべや”ってマネして買ったのがスロッビング・グリッスル(注:イギリスで結成された電子音楽を主体としたインダストリアル・バンド)の『グレイテスト・ヒッツ』。焼死体の女性のことを歌っているとか、気持ちの悪い音楽。そういうレコードが兄貴の影響で家にあったわけですよ」
──そこから音楽に目覚めていったんですね。
「俺が中学1年生のときにはもう兄貴は就職で札幌に行っちゃって。兄貴が実家にレコードを置いていったので、それを聴いていました。兄貴はその後、バブルガム・ブラザーズを好きになっていたから、もともとノイズミュージックはそんなに好きじゃなかったのかな(笑)。俺もロックバンドをやろうと思ったのに、ドラムが高校3年まで見つからず。ギターとベースと3人でセックス・ピストルズのカバーとかやっていましたね」
──バンド活動は順調だったんですか?
「結局、ドラムがいなくて学園祭に出られなかったんですよ。それで高1のとき、自分でそれまで学校になかった映画サークルを立ち上げたんです。映画とはいっても観るほうじゃなくて作るほうの。当時、近所の電気屋さんで家庭用ビデオカメラを4000円くらいで借りられたんですが、自分で金払うのは嫌だなって思って、学校でサークル作っちゃえば学校から金を出してもらえるなって思いついたんですよね」
──どんな作品を撮ったのですか?
「タイトルは『パンツマン』。北海道の留萌高校に行くと、それを動画で見られるらしいですよ(笑)。(※動画はWebサイト『RUMAR』にて、留萌市に訪れると見られる限定動画として配信中)
夏休み中に俺が脚本を書くってことになったんすけど、フィクションを書くのがすごく苦手だとわかって。結局、台本がないから映画サークルのみんなで“次、どうしよう”って考えながら作ったんです。
撮影の日に友達が、学校の近くでウ〇コのついたブリーフをたまたま見つけて、それで“これ使おう”って言って盛り上がった。そのパンツは実は宇宙生命体で、宇宙から来たパンツマンっていう殺し屋なんです。最後はパンツマンの弟がやってきて、兄の敵をとってサークルのメンバーがふんした敵を全員殺して海に帰っていくっていう」
──結構、過激な内容ですね(笑)。
「いや、実際見たら、ただ子どもがギャーギャー騒いでるだけのくだらないやつなんで(笑)。うちの家の向かいに“てっちゃん”っていうホラーマニアの金持ちの子がいたんですけど、そのてっちゃんがジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』の1978年版のレーザーディスクをアメリカから輸入していて持っていた。テレビで放送されたバージョンだと残虐シーンがカットされていたけど、てっちゃんに“ゾンビのビデオ貸して”と頼んだら、テレビと1978年版『ゾンビ』LDのスプラッター部分をミックスして最悪な感じに編集した『ゾンビ(てっちゃんディレクターズカット)』を作ってくれて(笑)。それと『パンツマン』を一緒に上映しました」
──まるでロフトプラスワン(注:掟さんも出演したことがあるサブカルを中心とした新宿のトークライブハウス)みたいな内容ですね。
「文化祭の出し物だけれど、ルーツ感がありますね。でも脚本を書くのは苦手なんですよ。小論文のテストとかいつも30点ぐらいだったし。くだらないことを考える力はあるけど、まともなことを筋道立てて考えたりするのは基本、向いてないみたいです」
東京に上京したつもりが熊谷に。食費を削ってレコードを買いあさる日々
──高校卒業後、大学進学で上京されるんですよね。
「そうですね。大学生になるってことは東京に遊びに行くってことだから。俺にとっては、4年の自由な時間ができたみたいなことだったんですよ。当時はバンドって東京まで行かないと見られないものがほとんどでしたから。もうねぇ、当時の北海道なんて何もなかったから。文化がないから! 文明は届くけど、文化って地方まで届かないじゃないですか。だから東京に行くのが楽しみでした」
──念願の東京生活はどうでしたか?
「俺が進学したのは立正大学という大学なんですけど、東京の大学を受験したつもりが、1、2年生の校舎が埼玉県の熊谷だったんですよ。パンフレットを見直したらすごいちっちゃい字で、<※1〜2年は熊谷校舎>って書いてあるという、さりげない隠ぺい工作があって(笑)。はりきって上京したのに、東京とは名ばかりっていうか。熊谷から新宿に出るまで、当時で片道の運賃が1060円かかったんですよ。当時はどうやったら安く東京に行けるかばかり考えていましたよね」
──上京してからは、ライブは見に行っていたんですか?
「見たいライブとかも見られるようになって、お金はないけど楽しかったですね。400円の牛丼を1杯食うんだったら、中古レコードが1枚買えるかもしれないから、食費を削って。大学生の頃は、レコードを買う時には飯を食わないっていうルールにしていました」
──大学卒業後は、就職されるんですよね。
「俺が大学に入った1988年はまだ雑誌が売れていた時代だったので、編集者が花形職業だったんですよ。媒体を使って文化を発信できるっていうのに憧れていたんです。“俺は編集者になるんだ”って勝手に思い込んで、出版社を何社か受けて、出版社だと言われている会社に入ってみたんです。そこの出版部門では『i-D JAPAN』(注:1991年に株式会社UPUから発行されたカルチャー雑誌)を作っていたんですが、本来は就職の採用パンフレットを作る仕事がメインだったんですよ。試用期間が終わって、そのパンフレットを作ることが決定して、“そんなの俺、向いていないから”って思っちゃったんです」
──せっかく入社した企業ですよね……。
「例えば証券会社の採用パンフレットを作るには証券取引の知識もいるし、当然それの勉強もしないといけない。でも俺、真面目なこと考えると脳がシャットダウンしてしまうし、事務仕事をやると眠くなってダメなんですよ。会議も起きていられないし、本当にまともなことが一つもできない。寝ないように会議中ずっと舌をかんでいたら血が出て、シャツが血まみれとか。そのぐらい仕事できないんですよ。まともなことは何一つできない」
──バイト暮らしをしていた時は、どんなことを考えていましたか?
「いつも“こんな仕事くらいできるんじゃないの”って思っているのに、どんな会社も光の速さでクビになる。クビにならなくても自分で仕事をブッチぎって辞めたりっていうのを繰り返して。ただ職場の人間関係がよければ、頭脳労働は無理でも実務労働だったらできたんですよね。窓拭きのバイトは7年続きました」
──ところで、仕事は長髪のままされていたんですよね?
「そうです。自分のことだけど“こんなやつ採用して大丈夫なのかな、この会社”って本気で思いましたよ」
──掟さんのトレードマークともいえる長髪ですが、どうして今まで長髪だったんですか?
「ラクだから。だって寝癖ついたりしないですよ、超ラク。20歳の時に、チリッチリになる強いパーマをかけたんですよ。それまでスットントンの直毛だったのが、それ以来、1回だけストレートパーマをかけたけど、チリチリが直らなくて」
──その長髪はパーマが取れない状態なのですね(笑)。
「今は、濡れた状態でドライヤーをかけずムースを大量につけたらこの状態。34年パーマが残り続けていますね」
ライブMCの説教が大ウケ、コラムを書いたら話題に
──バイトをしながらバンド活動をされて、そこからどのようにライター業を始めましたか?
「当時、恵比寿に『みるく』というクラブがあって、よくロマンポルシェ。で出ていたんですよ。そうしたら、“君、曲の合間のしゃべりが面白いから文章を書きなさい”ってお店の人に言われて、その店で配っていた『Tokyo Atom』っていうフリーペーパーで連載することになったんです」
──どういう内容を書いていたのですか?
「ライブでしゃべっていた説教の内容をまとめて書いていました。それを読んだ出版社の人が、今度はコラムの仕事を持ってきてくれたりして、気がついたらいろいろな雑誌でコラムの連載をするようになりました。それだけで食えるようになったので、2000年6月にはバイトを辞められたんですよね」
──それまでは、バンド活動をしながらバイトをしていたのですか?
「’97年からロマンポルシェ。の活動を始めたんですけど、’98年にCDを出して、最初の連載が’99年から始まりました。当時はビルの窓拭きをやっていたんですけど、このビル近辺(注:主婦と生活社がある東京都中央区京橋)もよく来てましたよ」
──ビルの窓拭きというと、高さが怖いような気がしますが……。その辺は大丈夫でしたか?
「大丈夫でしたね。いろんな仕事を3日でクビになっていたけれど、窓拭きは性に合っていたんです。頭は使わずに手だけ動かしてればいいから、俺には簡単だったんです」
──バイトで印象に残っているエピソードってありますか?
「キューンソニー(注:現キューンミュージック)が入っていたビルの窓拭きもやっていて、俺がビルの外にロープを垂らしてブランコで外の窓を拭いていたら、中にいた、まだ高校生くらいだった篠原ともえさんが全力で手を振ってくれたんですよ(笑)」
──いい話ですね。掟さんは、仕事をクビになった時に相手に対して何か怒りとか感じますか?
「自分が悪い場合もあれば、そうじゃない場合もあるだろうしね。でも合わない仕事はやっていてもしょうがないから、辞めりゃいいんじゃないですか。昔は1つの仕事を2年、3年は続けないと、その仕事が本当に向いてるかどうかわかんないみたいなこと言われたけれど。今は若いんだったら我慢せずに辞めてもいいんじゃないのと思います」
──ほかに仕事が見つからないかもと思うとなかなか踏ん切りがつかないと思いますが……。
「年を取ってから仕事を3日で辞めて、“今45歳です。明日からどうやって食べていこうかな”っていうのはまずいとは思うけれど。若かったら自分に合った仕事を見つけるために辞めてもいいと思うけれどね。まぁ、会社としては迷惑だけどね、すぐ辞められちゃったら(笑)。
でも世の中にはブラックな仕事もあるし、“やばいな”と思ったら早めに逃げたほうがいいよ。俺だって、今やっている仕事は自分に向いているからやっているだけなんですよ。事務仕事が得意な人はそれをやればいいし、俺はまっとうな頭脳労働ができないからくだらないことをやって糊口をしのいでいるだけで」
◇ ◇ ◇
第2弾インタビューでは、女子プロレスにハマり借金を背負った過去や、PerfumeやBerryz工房をブレイク前から応援していた掟さんならではのアイドル文化への思いなどを聞いていきます。
(取材・文/池守りぜね)
〈PROFILE〉
掟ポルシェ(おきて・ぽるしぇ)
1968年北海道生まれ。1997年、男気啓蒙ニューウェイヴバンド、ロマンポルシェ。のボーカル&説教担当としてデビュー。音楽活動のほかに男の曲がった価値観を力業で文章化したコラムも執筆し、雑誌連載も『別冊少年チャンピオン』(秋田書店)、『UOMO』(集英社)など多数。2018年に発売した著書『男の! ヤバすぎバイト列伝』(リットーミュージック)は重版されてヒットとなり、各所で話題を呼ぶ。最新刊は『食尽族〜読んで味わうグルメコラム集〜』(リットーミュージック)。そのほか俳優、声優、DJなど活動は多岐にわたる