嘘だ、と思うことがある。
例えば、水筒からコーヒー牛乳が漏れて鞄(かばん)がビチャビチャになっていたとき。留学前日に盲腸になって緊急入院し、目覚めたら病室の天井が目の前にあったとき。修行から戻ってきて1か月ぶりにスマホを見たら、通知欄に「別れよ」の三文字が並んでいたとき。
どれも紛れもない現実なのだけど、「嘘だ」と反射的に思っている。ハハハハ、まさかこれが現実なわけなかろう。脊髄で笑い飛ばしている。そうすることでしか、目の前のマッチョな現実を受け止めることができないからだ。
悲しみがピークに達したときは、さらに奥の手があった。今見ているこの世界が夢で、夢で見ている世界が現実だと思い込むのだ。映画『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』から着想を得た、天地返しの妄想である。
夢の中の自分はずいぶんと迂闊(うかつ)な男だ。気づけば友達と踊っていたりする。しかも、記憶の片隅にいた懐かしい顔の彼とでも何気なく。眠れない夜でも、夢の中の本当の自分に会えると思えば、安心して眠気に誘われた。
嘘とか夢とか幻とかは、もちろんただのハリボテでしかない。でも、逃げ場も見つけられないような夜には、そのたった一枚の嘘に救われることがある。
嘘と夢と幻が力を合わせながら、現実をよいしょと支えてくれているこの世界観に輪郭を与えてくれたのが、私にとっての星野源であった。この連載ではおなじみ「野生のブッダ」である。(そう勝手に呼んでいる)
《嘘でなにが悪いか》
《作り物で悪いか》
《嘘で出来た世界が》
《作り物だ世界は》
──星野源『地獄でなぜ悪い』より
『地獄でなぜ悪い』を初めて聴いたのは大学生のころ。当時の自分にその音楽のすべてを噛み締められるだけの落ち着きはなかったのだけど、それでも「なんかすごいこと歌ってる!」と思ったのを覚えている。今も聴くたびに、何かすごいものを受け取りすぎた気がして、リビングをぐるぐると回っていたりする。
《電気じゃ 闇はうつせないよ
焼き付けるには そう
嘘も連れて 目の前においでよ》
──星野源『フィルム』より
思えば、星野源は「嘘」という題材を何度も歌っている。今回は「星野源にとって嘘とはなにか」という大きなテーマを掲げながら、僧侶の私が『地獄でなぜ悪い』から日々感じているさまざまな心の機微に、ちょっとずつ言葉を置いていきたい。
『地獄でなぜ悪い』には二つの世界がせめぎあっている
『地獄でなぜ悪い』は不思議な聴き心地がする。耳で受け取った言葉のままに想像を続けていくと、つながるようでつながらない二つの大陸が現れるのだ。例えば、このフレーズ。
《作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ》
前の一文は「世界は自分の認識次第だ」と歌っているように私の耳には聞こえる。妄想で痛みを逃がし、花が女性のように見えるときもあるように、この世界は自分のイメージで創造できるのだと。
しかし、そう一筋縄ではいかない。すぐさま後半のフレーズで、「ここが地獄である」という固有の世界観が述べられるのだ。その対応関係は「嘘でなにが悪いか」というサビの一節と、曲のタイトルの「地獄でなぜ悪い」が対の表現となっていることからもよくわかる。
さらに、妄想で痛みを逃がす行為に対し《無駄だ ここは元から楽しい地獄だ》とすかさず否定する点も、嘘と地獄の対応関係をあえて際立たせているように感じ取れる。
つまり、この一曲には「世界は作り物である」という極めて俯瞰(ふかん)的な世界観と、「ここは地獄である」という極めて個人的な世界観が、せめぎあっているのだ。一方では、哲学的に世界の解放を歌いながら、もう一方では、一人の視点から閉じた世界が歌われている。
一曲の中でこんな聖☆おにいさんばりの同居を許しているのだから、そりゃ小さな私の頭の中がこんがらがってしまうのも無理がないのかもしれない。
愚か者の自分としては、「で、星野さん、結局どっちなんすか」とツッコまざるをえないわけなのだが、ここで思い出したいのが、これまでに歌われてきた星野源の「嘘」たちのことだ。
星野源にとって嘘とは何か?
《どうせなら 嘘の話をしよう
苦い結末でも 笑いながら
そう 作るものだろ》
──『フィルム』より
《日々のパロディ
遠い先へ 僕を運ぶ
ぜんぶ嘘さ 汗の混じった
妄想がつくる川 海へつづく》
──『パロディ』より
私は星野源の歌う「嘘」たちが好きだ。その本当ではないものたちは、誰かを騙したり欺いたりするものではなく、本当ではないと知られていてなお、自分も含めた誰かの支えになるものだからだ。どれもみな、優しいお化けなのである。
《ギャグの隙間に 本当の事を
祈るみたいに隠して》
《馬鹿みたいだろ ただ笑うだろう
目の前を嘘と知って
誰かが作る 偽の心を
腹の底から信じて》
──『ギャグ』より
どの曲も『地獄でなぜ悪い』と同じで、「嘘」という言葉が「fake」ではなく「fiction」の意味として歌われているように思う。その「嘘」は単なる「真実ではない」という意味を越え、現実を編集し、物語り、そうあってほしいという祈りにあふれている。
そして、『フィルム』では「闇」が、『ギャグ』では「涙」や「弱さ」、『パロディ』では「汗」といった言葉が象徴するように、嘘の周りには常に何かしらの痛みや苦労が付帯している。
また、厳密には「嘘」の文言は使われていないが、近い言葉として『アイデア』という曲では、その詞において、アイデアとは常に何かしらの障壁や悲しみを乗り越えて生まれうるものとして歌われている。
《つづく日々の道の先を
塞ぐ影にアイデアを
雨の音で歌を歌おう
すべて越えて響け》
──『アイデア』より
星野源の楽曲では、嘘は現実の痛みとともに歌われている。逆を言えば、現実への眼差しがなければ、嘘もまた生まれえないとも言えるのかもしれない。
この前提に立ったとき、星野源の歌う「嘘」の向かう先が少しずつ見えていく気がする。嘘は現実に根ざし、現実は嘘によって映される。嘘と現実は互いに否定し合う関係ではなく、コインの表裏、光と闇のような一体の関係性なのだ。
だからこそ、星野源は、手放しで「すべてはあなたが思うがまま」だとは歌わない。もちろん夢を見ることの素晴らしさは歌うが、その足は常に冷たい地面の上にある。「imagine = world」の図式は単独で成立せず、その「imagine」は常に地獄(現実)からの跳躍として現れるのだ。
余談にはなるが、それを表したのが『夢の外へ』の《嘘の真ん中をゆく》というスタンスなのだと私は思う。さらに言えば、私たちが星野源の楽曲を聴いたときに感じる、ポジティブだけどどこか切ない感じは、そうした二つの世界の揺れが根底にあるからなのではないだろうか。
《動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ》
文字面はおぞましくあっても、なぜか優しさを感じてしまうのは、地獄の先に見えているのが嘘という名の希望であると、星野源リスナーの私たちは知っているからだろう。
こうした二つの世界の共鳴を音楽で表現しようとしているアーティストを、私は他に知らない。唯一、ちゃんと整った形で頭をよぎるのは、私のボキャブラリーでは「色即是空 空即是色」という仏教の言葉だけである。
この世のすべての形あるもの(色)は、実体を持たず絶えず変化していく(空)。そして同時に、その実体なきもの(空)も一瞬においては形を有している(「色」)。色は空であり、空は色である。仏教の奥義ともいえる、一節だ。
すべてのものを想像で捉え、世界は自分の認識次第で無限に彩られていくが、それでも地獄に似た現実に自分の身体を置かざるをえない。そんな『地獄でなぜ悪い』は「色即是空 空即是色」と言えるのではないだろうか。星野源にとっての嘘とは、空の中で色を作り出し、色がまた空になっていく、そうやって続いているものなのだ。
眠れない夜に嘘の世界を思えば眠れること。そんな現実と虚構の間に立つ一枚の嘘を、星野源は歌ってくれているのだと思う。
このように一僧侶の目線から見れば『地獄でなぜ悪い』で描かれている世界観は、仏教の悟りの境地そのものなのである。本当にびっくりしちゃうくらいに。この連載のオチでは毎回言っている気もするが、本当にそうなのだ。
軽い気持ちで始めた、野生のブッダとの源問答だけど、嘘か本当か、ついに第5回まで続いてしまった。次回がどうなるかわからないが、とにかく今夜はトマトパスタを作ろうと思う。
(文/稲田ズイキ)
《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、渋谷のデジタルエージェンシーに入社するも1年で退職。僧侶・文筆家・編集者として独立し、放浪生活を送る。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)