昨年、球界では元メジャーリーガーでもある新庄剛志氏が監督に就任し、自ら「BIG BOSS」と名乗り、話題を呼びました。実は、プロレス界にも「BIG BOSS」ならぬ、『大社長』という呼び名で親しまれているレスラーがいます。
現役レスラーであり、社長という肩書を持つ高木三四郎選手。彼は、ABEMA(アベマ)などのサービスを展開する株式会社サイバーエージェントの傘下にある株式会社CyberFight (サイバーファイト)の社長業を務めながら、自らが設立したDDTプロレスリング(以下、DDT)の運営や、飲食業などを手掛けています。
クラブでのプロレス興行や、『路上プロレス』など型破りな戦略でプロレス界に新風を起こしたDDT。その仕掛人となる高木三四郎選手に、これまでの軌跡をお聞きしました。
レスラーごっこが好きな子ども。大学ではクラブ通い
──子どもの頃から、レスラーになりたかったのですか?
「子どもの頃は、長州(力)さんが維新軍(1983年、新日本プロレス所属時代にマサ斎藤、アニマル浜口らを率いて組んでいたチーム)をやっていて、アントニオ猪木さんの巌流島(実際に1987年、山口県下関市の巌流島で行われた試合)だったり、一番、多感な時期が、プロレスの第一次黄金時代だった。小学校の時は毎日プロレスごっこしていましたよ。タッグリーグ戦を毎日、組んでやっていましたね」
──好きなレスラーはいましたか?
「みんなは猪木さんの役をやりたがったけれど、僕は陰の人をかっこよく思っていた。天龍(源一郎)さんが好きで、トップレスラーよりは陰で頑張っているレスラーが好きだったんです」
──レスラーになるのを意識しだしたのはいつ頃でしたか?
「レスラーになりたいなら柔道部だろうなって思って、高校で柔道部に入りました。’87年頃ってナウリーダー(アントニオ猪木をはじめとするベテラン勢)、ニューリーダー(長州力、藤波辰爾、前田日明)っていう世代間闘争が勃発したり、第二次プロレスブームが盛り上がり始めていた。レスラーになりたいやつがみんな柔道部に入部してきたので、今度は部活でプロレスごっこをやったりしていました」
──大阪のご出身ですが、高校を卒業したらプロテストなど受けられましたか?
「いいえ。普通に受験で東京の大学に進学しました。当時、いしかわじゅん先生が『東京物語』(1989~1993年に『週刊プレイボーイ』で連載)という漫画を描いていたんです。それを読んで、東京に行って雑誌編集者になったら、アイドルや女優と知り合えるんだって思って上京してきました(笑)」
──東京ではどのような学生生活を過ごされていましたか?
「レスラーになろうって気持ちは薄れていったんですけれど、プロレスは観に行っていたんです。サークルにプロレスが好きな人がいて、一緒に新生UWF(新日を解雇された前田日明が旗揚げした団体)の旗揚げ興行のチケットを取るために徹夜して並んだ話を学校でしていたら、全然知らない女の子から“高田延彦さんの後援会長がやっている文房具屋でバイトしているの”って話しかけられたんです。その子と仲良くなってUWFのビッグマッチ(1988年有明コロシアム『真夏の格闘技戦』)に行ったんです。そこで、後援会長ってどういう人だろうと思って会ったのですが、それがのちの鈴木健さん(UWFインターナショナルの元取締役) だったんですよ」
──少しずつ、プロレスに近づいていくのですね。
「でも大学生活が楽しくなっちゃって、いつしかプロレスラーを目指していたことを忘れちゃって、ずっと遊んでいたんです。イベントサークルでクラブとか、ディスコに入り浸っていました。またここでプロレスにつながるんですけれど(笑)、ヴェルファーレによくレスラーが来ていたんです。馳先生(馳浩・元レスラー、石川県知事)や藤波さん、外国人レスラーが来ているのを見て、“勢いがある人は遊んでいるな”って眺めていたんです」
週末レスラーとして大ケガを負い、覚悟が決まった
──大学卒業後は、就職などされたのですか?
「僕、バイトとかもしたことがなかったんです。学生の頃から広告代理店と仲良くなって、スポンサーを集めてもらって企画をして集客する。ヤングマーケットのセールスマーケティングの手伝いみたいなことをやっていました。今でいう、ベンチャーの走りですね。食べていくのは困っていなかったんです」
──そこからどうやってレスラーデビューされたのですか?
「テレビの仕事をした時に、『屋台村プロレス』のリングアナをやっているっていう芸人さんと知り合ったんです。屋台村プロレスの知名度がないから、雑誌で取り上げてほしいと言われました。彼らは居酒屋が集まった場所に、リングを置いてプロレスを見せていた。その練習を見ているうちに、“これ、俺でもできるかもしれないな”って思ったんです」
──レスラーとしてリングデビューされたのは何歳でしたか?
「24歳です。その当時、UWFに影響されてサンボも習っていたので、やれるかもって思いました。屋台村プロレスって、週末しか試合をしてなかった。これなら自分のライフスタイルにもぴったり合うなっていうのもありました」
──予想しない形でのレスラーデビューだったのでね。
「最初はプロレスラーって名乗れればいいっていう感じでした。でも新東京プロレスっていう石川孝志さん(全日本プロレスなどで活躍した元レスラー)の団体に参戦した時に、受け身を失敗して、足から落ちて骨折して。選手を乗せていた帰りのバスの中で、“あいつ受け身もできないからしょっぱい”って聞こえてきたんです」
──今の姿からは想像がつかないですね。
「そこから、本腰を入れてやろうって思ったんです。ケガをしたことによって“やめられなくなっちゃったな”って覚悟が決まったんです。そこから、意識を変えて身体もでかくして、練習をちゃんとするようになりました」
──レスラーとして生きていく決心がついたのですね。
「この環境でやっていたらだめだって思って、PWC(1993年設立のインディー団体)っていう高野拳磁さんがやっていた団体に入団したんです。その時は、NOSAWA論外(現フリー)と、MIKAMI(現フリー)と、3人でやっていました。ある時、お客さんが全然入らなかった興行があって、バックステージで高野さんが怒っちゃったんです。“解散だっ!”って言って。マジで解散しちゃったんですよ」
──せっかくレスラーとしての場所を見つけたのに、落ち込みませんでしたか?
「“まっ、いっか”って思いましたね。そうしたらNOSAWAが僕のところに来て“こんなんでいいんですか”って言ってきた。僕は“いいんじゃない”って言ったんですが(笑)。プロレスをやっていてもお金が入ってくるわけではないし……。そうしたら、NOSAWAから“団体を作りませんか”って言われたんですよ」
──そこがDDTのスタートだったのですね。
「最初は嫌だったんですよ。NOSAWAの熱意に押されて始めたのがDDTでしたね。立ち上げてからしばらくは、資金が足りなくなったり、厳しいって思えることが何度かあった。経営の部分は別の方にやってもらっていたんだけれど、そのまま面倒みてもらうのも違うなって思ってきて。そこで、起業してDDTを会社登記して僕が社長になるしかないなって決めました」
発想を変えてクラブでプロレス。女子高生が見に来て話題に
──もともとは団体を作ることに積極的ではなかったのに、自分から経営を行おうと思ったきっかけはありましたか?
「きっかけは、当時おつきあいしていた相手の存在が大きいです。結婚したんですけれど、“プロレスラーとして、どうやって生活すればいいんだろう”ってところがスタートでした。もうやるしかないなって」
──高木さんが社長になられてから、団体の経営はうまくいきましたか?
「順風満帆にうまくいったというか、軌道には乗りました。普通にやっていたら無理だったんですよ。巨体のレスラーと比べると、そこまで大きくはない選手たちだったので、注目を集めるのは難しかった。そこで発想を変えて、渋谷の『club ATOM』というクラブを借りて、そこでプロレスをしたんです」
──クラブでプロレスですか!?
「そうです。当時はギャルブームだったんですよね。ギャルが見に来るプロレス団体って評判になったんです。それが『トゥナイト』(テレビ朝日系で1980~1994年まで放送されていた深夜の情報番組)に取り上げられたんです」
──確かに、女子高生がプロレスを見に来ていたら、目立ちますね。
「ただ、2008年に起きたリーマンショックの影響で、一気に集客が落ちたんです。これは起死回生しなければだめだって思って、2009年に両国国技館でビッグマッチ(8月23日『両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜』)を行ったんです」
──興行は成功されましたか?
「札止めになるくらいのお客さんが見に来てくれたんです。それが成功して、業界的にもちゃんとした団体として認知され、専門媒体にもどんどん取材されるようになった。プロレス団体として、ビッグマッチを行うことで世間にも認知が広がる。そこが大事だったんだって気づきました」
路上プロレスの動画を観た藤田社長が快諾し、グループ傘下に
──2017年にサイバーエージェントの傘下に入られ、プロレス界以外からも注目を集めました。どうして大手企業のグループ会社になったのですか。
「2017年3月20日に、旗揚げ20周年興行をさいたまスーパーアリーナで行ったんです。満員にはなったけれど札止めにはならなかった。そこで、限界を感じたちゃったんです」
──例えば、どのような限界でしょうか……。
「このままだと新日本プロレスには永遠に勝てない……。新日本に勝つというのは1つの目標でもあったし、一番にならないと意味がないっていうのがあった。でも、新日本のような大規模興行をやるには、最後の一手で限界を感じました。資本も必要だって考えた時に、自分がオーナーのままだと難しいな。上場企業のグループに入って、プロレス部門としてスタートを切るしかない。そう感じたんです」
──出資をしてもらえる企業を、どのように選びましたか?
「メディアを持っている企業じゃないと意味がないと思っていましたね。その点では、サイバーエージェントがやっているABEMAはすごく勢いがあったんです」
──ABEMAのどういった部分に魅力を感じたのでしょうか。
「ABEMAで、社長にフィーチャーした番組に出させてもらった時があったんです。そうしたら、リムジンのハイヤーが会社まで僕を迎えに来たんです」
──VIP待遇ですね。普通はそのような待遇なのですか?
「いえ。ハイヤーじゃなくて、“直接、現地に来てください”っていうのでもいいじゃないですか(笑)。それが一番、驚いたんです。“なんでハイヤーなんですか?”って聞いたら、“社長には敬意を払うっていうのが、藤田社長(サイバーエージェント社長・藤田晋氏)の考えなんですって言われた。しかも、弁当のグレードがすごい! 見えないところでお金を使うなんてすごいメディアだなって感激したんです」
──確かに、ビジネスパートナーとして一緒にやっていくなら、人材を大事にする企業がいいですよね。
「それがきっかけで、“サイバーエージェントしかない”って思っちゃったんですよね。人脈のつながりがあって藤田社長とお会いする機会ができた時に、自分から直訴しました。僕のスマホに路上プロレス(DDTの名物で、本屋やキャンプ場などリング以外の場所で行うプロレス)の動画を仕込んで見てもらった。そうしたら、“面白いですね”って言われて」
──好感触だったんですね。
「はい。藤田社長は決断も早くて、7月末にお会いして、9月1日に契約しました。ちょうどABEMAもコンテンツの1つとして格闘技に力を入れたいタイミングだったのがよかったみたいです」
──藤田社長は、実際にDDTの試合をご覧になられたことはあったんですか?
「『闘うビアガーデン』(ビアガーデンのように飲食しながら鑑賞できるDDT名物の興行)に来ていただいたんです。その日は、『男色ディーノ&スーパー・ササダンゴ・マシンDAY』で、ファンから差し入れられたアルコールを選手が飲みながら戦う試合が組まれていたんです。“よりによってこれか~”って思って(笑)。リング上に、お客さんが空き缶とか投げ入れたりする興行なんです。藤田さんは、どういう目でこれを見ているのかなって思っていたら、どうもその体験がすごく気に入ったらしくて。“こんなデタラメなことするなんて面白いですね”って言ってもらえたんです」
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渋谷のクラブから始まり、両国国技館に進出。どれも既存のプロレス団体にはなかったアプローチで、プロレスファン以外の新たなファン層を獲得していったDDT。インタビュー第2弾では、DDT所属レスラーが働く飲食店の経営や、DDTが提唱する「文化系プロレス」とはどのようなプロレスなのかお聞きしています。
*取材協力:DDTプロレスリング・Bar Lounge SWANDIVE
(取材・文/池守りぜね)
〈PROFILE〉
高木三四郎(たかぎ さんしろう)
1970年1月13日生まれ。大阪府豊中市出身。株式会社CyberFight代表取締役社長であり、現役プロレスラー。1995年にプロレスラーとしてデビュー。1997年にDDTプロレスリングを旗揚げし、2006年に社長に就任。業界きってのアイデアマンであり、文化系と言われるエンタメ性の高い興行で日本武道館や両国国技館での大会を成功させる。2017年9月、サイバーエージェントグループに参画。著書に『年商500万円の弱小プロレス団体が上場企業のグループ入りするまで』(徳間書店)、『俺たち文化系プロレスDDT』(太田出版)がある。
●6月12日にさいたまスーパーアリーナ・メインアリーナで、DDTプロレスリング、プロレスリング・ノア、東京女子プロレス、ガンバレ☆プロレスの傘下4団体による合同興行「CyberFight Festival 2022」を今年も開催!!
『CyberFight Festival 2022』
2022年6月12日(日) 開場12:00 開始14:00
埼玉・さいたまスーパーアリーナ・メインアリーナ
★同大会は、2週間無料トライアル実施中の動画配信サービス「WRESTLE UNIVERSE」で独占生配信!