1985年に発売された戸川純の『好き好き大好き』。《愛してるって言わなきゃ殺す》というフレーズが、令和の若者たちにも支持され、TikTokでは『好き好き大好き』を使った動画がバズっています。その勢いは国内にとどまらず、北欧や東南アジア諸国でもアップされ、まさに世代や国境を越え愛され続けています。
唯一無二の存在ともいえる戸川さんは、近年はバンド『ヤプーズ』を率いて精力的な音楽活動をしています。また、YouTube動画『戸川純の人生相談』では、視聴者からの悩み相談に応じる姿を配信し、新たなファン層も獲得。今回は、戸川さんにデビューまでの経緯や芸能活動についてお聞きしました。
子役のころ、最後と言われた大舞台で演技の虜になる
──戸川さんは、TOTOの『ウォシュレット』のCMをはじめ、『刑事ヨロシク』(1982年にTBS系で放送。脚本家の宮藤官九郎も影響を受けたというドラマ)でのおつや役や、数々のドラマ、映画、そしてミュージシャンとしての活動など、マルチに活躍されていた記憶があります。芸能活動のきっかけは何でしたか?
「小3のときに、劇団ひまわりに妹の京子(戸川京子さん)と所属したんです。京子は華があったんで、すぐ役がもらえたんです。私は当時地味だったから……(苦笑)、ずっとエキストラ。親から、私には才能がないと言われました。でもその直後、3階席まである大舞台のオーディションに受かったんです」
──どのようなオーディションだったのですか。
「新国劇の『王将』という舞台で、最終の3人に残りました。台詞は3〜4個だったかな。思いっきりデカい声で“お父ちゃんのアホ!”って言ったら受かったんです(笑)。(自分の出演がないときに)その舞台を3階席から見ていたら、辰巳柳太郎さんの演じている主人公が、ひなたぼっこしながら眠ってるんです。セリフが全くなくなって動かなくなって少しして、3階席からでもこの人は死んだんだってわかるんですよ! その演技を見て、“芝居ってすごいや!”って、演技の虜(とりこ)になったんです」
──芸能活動はお芝居がスタートだったのですね。
「でも親に “学校がある”って芸能活動を反対されたんですよ。京子も芸能活動をやっていたんですけどね(笑)。でも彼女は才能があるから続けていいって親から言われていて。それで、こう考えたんです。“芸能界でテレビに出ている人って、才能がある人ばかりには見えない。だから諦めないで学業に専念して、大学に入ったら演劇をやろう”と。もうメラメラとその気持ちは燃えていましたね」
──学生時代も、演劇の勉強は続けていたのですか?
「学校の演劇部は練習が、ちょっとぬるいって感じていたし、門限が厳しかったし、よく早退していたんですよ。母親が女優になることを応援してくれていて、クラシックバレエやモダンバレエ、日舞も習っていました。ピラティスのV字バランスのポーズで、“あ、え、い、う、え、お、あ、お”って自主的に発声練習もしていたんですよ。おかげで声楽を習ったときも、“腹式呼吸はもうできてる”って言われました。あとは新劇の本を読んで、ジェスチャーみたいに独学で練習していました」
大学に入学し、本格的な芸能活動をスタート。しかしエキストラばかり
──大学に入学されてからは、芸能活動を再開されたのですか?
「18歳で事務所に入ったんですが、台詞がたった1つか2つくらいの役でもオーディションがあるんです。最初はそういうのから再開しました。令和元年が芸能生活40周年だったんですけど、それはドラマのエキストラで出演したときからカウントしているんですよ」
──音楽活動の印象が強いですが、レコードデビューからの芸能スタートではないんですね。
「はい。でも台詞のないエキストラ役でも、“私は芸能界の末端にいる”って女優気分でしたね(笑)。そこからだんだん、役がもらえるようになっていきました。音楽も女優も18歳から始めて、ゲルニカ(戸川さんが所属していた音楽ユニット)でレコードデビューしたのが’82年でしたね。私、『花の82年組』(小泉今日子、中森明菜、早見優などトップアイドルがデビューした年)なんですよ(笑)」
生理を歌った『玉姫様』で歌番組に出演
──『玉姫様』(1984年)の歌詞は、生理をモチーフにされていますが、この曲が誕生した背景を教えてください。
「ある人に、“男は頭で考える。女は子宮で考えるっていう言葉は、君のためにある言葉だね”ってけなし言葉として言われたのがきっかけでした。その言葉を受けて、そのまま否定するような歌詞を書いたら、なんかウーマンリブ的な運動みたいだなって感じて。むしろ、“それが何か? オホホ”みたいな内容にしたいと思って『玉姫様』の歌詞を書いたんです」
──歌詞にメッセージ性を込めることを、あえて否定したのですね。
「新宿出身なので、子どものころは全共闘と呼ばれる運動が盛んな地域でして、小学校は集団下校していたんです。学生と機動隊の抗争が近所であって、それをテレビの生放送で見て、“戦争みたいだ”って感じた。それがトラウマみたいに残っているんです。だから主義主張が前面に出ているような運動は、私個人はやろうとは思いませんでしたね」
──『玉姫様』というタイトルはどのように決めたのですか?
「私が乗っていたタクシーの前を走るタクシーの後ろ側に、『玉姫殿(たまひめでん)』っていう結婚式場の広告があったんです。それが“たまひめどの”って読めて、それなら、“殿”より“様”にしようってひらめいたんです。それから歌詞を書くようになりました」
──『夜のヒットスタジオ』(1968年~90年にフジテレビ系で放送された音楽番組)に『玉姫様』で出演された時の巨大な羽を背負った衣装やパフォーマンスは、現在でも語り継がれています。あの衣装はどのようにして選んだのですか?
「羽はアルバムジャケットのために用意したんですけれど、プロモーションでも使おうってなったんです。だから羽を背負うことは最初から決めていましたね。服装は別の格好と迷ったけど、黒い手袋をして羽の色に合わせたんです。そうすると全身トンボっぽくなるでしょ(笑)。でもレコード会社のディレクターからは、“TOTOウォシュレットのような衣装一式のほうが割と知られているから”と違う格好をすすめられたんです」
──ランドセルを背負った衣装もインパクトがありましたが、あの衣装のコンセプトは何でしたか?
「あれは『玉姫伝』(1984年にラフォーレミュージアム原宿で行ったコンサート)の衣装なんですよ。『レーダーマン』と『隣りの印度人』という曲とかで着る衣装だから、どんな格好がいいかなって悩んで。もともとロリータファッションが好きだったし、『〇〇マン』は小学生も好きだろうというところから小学生の格好になったんです。最初に久世さん(久世光彦さん・演出家)の番組で、小学生の格好をさせられたんですよ。そのときに大人もランドセルって背負えるなって思って。コンサートで使ったランドセルはね、伊勢丹に買いに行きましたよ(笑)」
──『レーダーマン』(1984年)で着られていたアンドロイドのような腕も、サイバーっぽくてかっこよかったです。
「あの腕と『玉姫様』の羽は、ジャケット撮影のためにデザイナーの井上嗣也さん(朝日広告賞など数多くの賞を受賞しているアートディレクター)が用意したんです。彼は指をパチンパチンと鳴らすクセがあって、(指を鳴らしながら)“絶対にいいものができる”って言ったんですよ(笑)。“なんでですか?”って聞いたら、“根拠はないけれど、確信がある”って答えたんです」
──音楽活動以外でも、80年代に放送されていたTOTOウォシュレットのCM「好きなひとのもにおうから。」というコピーも衝撃的でした。
「いや、そのときは実はもっと強烈なコピーだったんですよ。ちょうどオゾン消臭という機能が付いた時でしたから(笑)」
不思議ちゃんとマスコミから呼ばれた苦悩
──戸川さんは女優やCMモデル、歌手とマルチに活躍される中で、マスコミからは「不思議ちゃん」という呼ばれ方もされていました。時代が早すぎて戸川さんを定義することが難しかったという印象がありますが、ご自身はどう感じていましたか?
「『不思議ちゃん』って“マルチで何をやっているのかわからない”って意味では使われていなくて、ムードじゃないかな(笑)。バカみたいに見えたんでしょうね……。そういうキャラみたいな扱いですよね」
──不思議ちゃんと呼ばれたことでの、違和感などありましたか?
「どこも不思議なとこなんてないと思うんですよ。私と話した人は皆そう言ってくれますし。むしろファンの方のほうに、不思議ちゃんが多かったですね。ファンの女の子から、指をくわえながら舌ったらずで、“私、純ちゃんに似てるって言われるの〜。私って変な子〜?”って言われることがしょっちゅうあったんです。そういうときは、その子の両肩をつかんで “大丈夫! 全然、似てないから安心して!”って伝えています(笑)。一応、その子が傷つかない感じで」
──歌詞についても、誤解されたことなどありましたか?
「以前、“戸川純の歌詞は難解だから、ファンはみんな辞書を引きながら聴いている”って言われたこともあるんです。《我 一介の肉塊なり》(『諦念プシガンガ』)っていうのも、“私はただの肉の塊よ”っていう言葉では伝わらない。もっと強い覚悟とか意志の強さとか、逆に強い諦めの念とかを伝えようと必然性を持って言葉を選んでるんです。『蛹化(むし)の女』とか、その言葉じゃないと覚悟が伝わらないと思いますし。それを難解と捉えられてしまうこともあって……」
──当時、『宝島』(1970年代~2010年代まで発行されたサブカル文化を中心とした雑誌)で、戸川さんが「根暗と言われたくない」という発言をされていたのを覚えています。
「(感慨深く)ああ、『戸川純の人生相談』というコラムだけでしたからね、本当のことが言えるのが、自分が執筆していた連載だけだという。当時は新聞や雑誌にひと言も言っていないことや、“根暗を売りにしている”とか好き勝手に書かれました。ひどかったのは、“夜ごと、カフェバーで男をとっかえひっかえしてホテル街に消えていく……”って書かれたこととか。父が心配して“純は本当にこうなのか”って言ったらしいんですよ。そうしたら母が“あなた、自分の子を信じられないの?”って言ってくれて。当時は忙しいことが大変だと思っていたけれど、そういう苦しみもありました」
◇ ◇ ◇
言葉を選びながらも、ときおりユーモアを交えながら自身の活動を振り返ってくださった戸川さん。後編では、作詞についてやファッションのこだわりについても語っていただきました。
(取材・文/池守りぜね)
〈PROFILE〉
戸川純(とがわ・じゅん)
子役経験を経て、1980年TVドラマデビュー。1982年、ゲルニカの一員としてレコードデビュー、同年TOTOウォシュレットのCM出演でお茶の間にもインパクトを与える。その後もソロやヤプーズなどのバンド名義で音楽活動を展開、女優としても活躍する。作品に『玉姫様』(1984年)、『好き好き大好き』(1985年)、『昭和享年』(1989年)、自選ベスト3枚組『TOGAWA LEGEND』(2008年)など多数。今年1月、戸川純+山口慎一の名義で『戸川純の童謡唱歌』を一般発売。2019年に芸能活動40周年を迎えた後も、マイペースな活動で後進に影響を与え続けている。
6月1日(木)札幌cube garden
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7月20日(木)渋谷PLEASURE PLEASURE