クイズ作家の日高大介さん(45)は、『第14回全国高等学校クイズ選手権』(日本テレビ系)静岡県代表を始め、『パネルクイズ・アタック25』(テレビ朝日系)優勝、『タイムショック21』(テレビ朝日系)優勝など数々のクイズ番組で好成績を残し、クイズ好きの間で知らない人はいないほどの存在です。
現在はその知識を生かし、クイズ作家の仕事のほかに、クイズ本の執筆や、クイズイベントの定期開催なども行っています。インタビュー第1弾では、主に幼少期から中学時代のクイズにまつわる思い出についてお聞きしましたが、今回は、日高さんの人生に多大なる影響を与えた『全国高等学校クイズ選手権』(以下、『高校生クイズ』)のエピソードと、大学進学の目前で患ったパニック障害について語っていただきました。
(インタビュー第1弾→『アタック25』優勝のクイズ王・日高大介、勉強は得意? 印象深い問題は? 必勝法は? 気になる疑問をぶつけてみた)
念願の『高校生クイズ』に初挑戦! 予選敗退をバネに翌年は全国大会出場へ
──浜松市の中学校から、進学校である静岡県立浜松北高等学校に進学した日高さん。『高校生クイズ』出場に並々ならぬ情熱を燃やしていたそうですが、高校に入学してすぐ準備を始めたのですか?
「はい! 高校に入学した直後に『アメリカ横断ウルトラクイズ』が終了してしまいましたので、高校生活の3年間は『高校生クイズ』にかけていましたね。昼休みにクイズ大会を開いたほか、“まだ見ぬすごいヤツはいないかな……”って、クイズの才能がありそうな人材を発掘していました(笑)。最初の年は4チーム12人で参加したのですが、みんなで予想問題を作って早押しクイズをしたり、楽しんで対策していましたね。『高校生クイズ』では静岡県は中部ブロックに入るので、予選は愛知県まで出かけて参加していました」
──その際に印象深かったエピソードは?
「とにかく、第1問の正解がうれしかったですね。今でも問題を覚えています。《日本で、恐竜の化石が発見された県は、フォッサマグナ(東日本と西日本の境目となる地帯)を境として、ここ愛知県を含む西日本の方が多い》というYES・NOクイズでした。この’93年は、出題されるとしたら絶対に『Jリーグ』だろうと思っていたのですが(Jリーグの開幕年)、確かに『ジュラシック・パーク』が公開されるなど恐竜ブームでもあり、盲点を突かれた感じでしたね。1問目は、正解なんてわかるはずもなく(笑)、“たぶん、わざわざ中部ブロックで出題するなら、愛知を含む西日本が多いのではないか? これがNOだったら問題にならないだろう”という出題者の心理を考えて、YESのほうを選びました。
正解発表では、正解がYESだったら青空に青いカラーテープが、NOだったら赤いカラーテープが花火のように打ち上げられる演出だったんです。空を見上げたら雲ひとつない青空だったので、“やばい! 青い空に映えるのは赤いテープだ”って不安になりました。いちいち演出まで考える高校生なんて生意気ですよね(笑)。そんな中で、青空に青いカラーテープがバーン! とはじけた瞬間。これが、今までのクイズ人生のなかでも、最高にうれしかった瞬間でした。喜びの快感は想像以上で、あまりに感情が爆発して、YESのゾーンにいる高校生、もう男女も学校も関係なく、全員と抱き合って喜びました(笑)」
──その後、惜しくも予選で敗退となってしまったそうですが、全国大会には、いつ出場できましたか?
「翌年の’94年、高2のときです。予選は1年生のときと同じく、電車に揺られて愛知県。1年生のときはYES・NOクイズの2問目で落ちたのですが、その年は奇跡的に8問目まで勝ち残って、静岡県のベスト8に滑り込み、最大の難関を突破しました。その後もトントン拍子で勝ちあがり、無事に静岡県の代表として全国大会への出場が決まったんです」
──それは快挙ですね!
「YES・NOクイズでベスト8に残ると、今度は全国統一の100問ペーパークイズで各県4チームに絞られるんです。いよいよ知識の勝負ですよね。ここは絶対に負けられないので真剣に解きました。無事に中部大会ではペーパークイズをトップで通過。ただ、後に知ったのですが、点数では鹿児島の私立ラ・サール高校に1点差で負けていたそうです。全国では第2位でした。でも、“クイズで自分たちより強い人たちがまだまだ全国にいるんだな”っていうことを知ることができて、悔しいというよりはうれしかったですね」
まさかの『替え歌バトル』で撃沈、翌年も予想外すぎる問題が出て──
──悲願の全国大会での思い出はありますか?
「まずは、東京に行ける! という喜びが大きかったですね。クイズの勉強は中学からしていたので、絶対に優勝するつもりで上京しました。東京駅には、全国から49チームが集結していて、胸が熱くなりましたね。ただ、僕たちは全国大会の1回戦で何をするのか知らされないまま、バスで新宿の京王プラザホテルに連れて行かれたんです。その1回戦は“ディナーショー・クイズ”ということで、僕たちがディナーショーの主役となる『替え歌バトル』で競いました」
──覚えていますよ! ビートたけしさんの事故をもじった替え歌がありましたよね。
「“(『北酒場』のメロディーで)北野〜武の〜無事祈る~”(笑)。僕は放送でカットされた曲を含めてだいたい覚えているんですが、あの49曲の替え歌を思い出すと、’94年の世相が思い出せるんです。村山富市が総理だったこと、猛暑で水不足だったこと、梅宮アンナと羽賀研二が世間を騒がせていたこと(笑)など」
──確か、作詞テーマは自由で、楽曲に対して即興で歌詞を作るものでしたよね。
「はい。僕らの課題曲は、とんねるずの『一番偉い人へ』でした。曲のジャンルは抽選で決まったのですが、僕たちは“J-POP”に選ばれました。他のチームは“民謡”や“アニソン”になって嫌がっているチームもいて、3人で“ラッキー!”と思っていたんですが、ツイていないのは僕たちだった。演歌や民謡は歌詞の文字数が少ないんですが、J-POPは歌詞が長いし、言葉の数も多くて、とにかく30分では作詞できなかったんです」
──どのようにして勝敗が決まったのでしょうか。
「全チームが替え歌を作り終えて提出した後に、ようやく福澤朗さんがルールを発表しました。簡単にいうと、替え歌の歌詞の中に『ある言葉』が入っていたら失格、というものでした。その言葉を“阻止ワード”というんですが、作詞を終えた後に、49チームが(他のチームが替え歌の歌詞に使っていそうな)阻止ワードを書いて提出したんです。僕たち3人は“夢/青春/ファイヤー”って書いたのかな。
そして、1チームずつ前方のステージに立って替え歌を披露して、最後まで阻止されずに歌い切ったら勝ち抜け、即2回戦進出。途中で阻止ワードが入っていたら照明が落ちて失格、というルールでした。正直、どこがクイズなんだろう……って思ったんですけど(苦笑)。僕たちのチームが作った歌には、“クイズ”、“憧れ”、“高校”などなど、阻止されそうなワードがてんこ盛りで(笑)。案の定、Aメロの序盤、“クイズ”というワードに阻止されて、敗退しました。クイズの実力を発揮する前に落ちてしまったんです」
──それは悔しかったですね。
「“北高100周年”というタイトルで、なかなか感動する歌詞だったんですけどね(笑)。少し石橋貴明さんと木梨(憲武)さんのマネを加えて歌いました。あのときは審査員として、小林亜星さんと清水ミチコさんがいらしていたのですが、亜星さんからは“君、歌がうまいね~”って褒めてもらえたんです。清水さんからは、“最後まで聞きたかった~。将来、モノマネを仕事にしたらどうですか”って言われたんですよ(笑)」
──日高さんは『ものまね王座決定戦』が大好きで、分析などもしていますから、今のお仕事ともつながりますね。
「そうなんですよ。替え歌を作っているときに、清水さんが各テーブルを回ってくださっていて。そのときに“(バラエティ番組の)『夢で逢えたら』に出られていたころから大ファンなんです”って伝えたら、ハグしてくださった。だから清水ミチコさんが、僕が初めて抱き合った芸能人なんです(笑)。放送ではカットされたのですが、清水ミチコさんが“ディナーショーの極意とは何かを教える”という設定で、僕たち高校生のためだけに40分くらい“ものまねライブ”をやってくれたんです。当時は新ネタだったドリカムとユーミン(松任谷由実)の作曲法のものまねとかもしてくれて、“えっ、ここまでやってくれるの!”って感激しましたね。それで、先のモノマネの話につながるんです」
──『高校生クイズ』ではそのまま、1回戦で敗退を喫したのですか。
「はい。その後、敗者復活戦のYES・NOクイズがあって、ギリギリまで粘ったんですがラスト1問で負けてしまいました。その日の東京の夜はもちろん、1週間は悔しくて眠れませんでしたね(笑)」
──学校での反応はどうでしたか?
「当時は、決勝まで残ると、高校と決勝地を中継でつなぐ演出があったんです。だから僕らが全国大会に出ることは全校生徒に通知してあったんですね。決勝の日程と、ロケ場所を押さえる関係もあって。そんな中で無残な敗退をしてしまったので、新学期の9月1日が来るのが嫌でしたね。あまりにショックで、2学期の数学のテストが100点満点中3点だったのを覚えています。学年で最下位でした」
──そこから翌年も、高校生クイズに挑戦しましたか?
「もう、リベンジに燃えていましたね。毎日クイズの勉強をして、自分たちが勝ち上がった中部大会のビデオを365日繰り返し見ていました。迎えたラストイヤーの予選は、気合い入りまくりでした。1問目は難なくクリア、ところが、2問目のYES・NOクイズで《名誉市民の称号をもつベルギーの『小便小僧』は、両手でオチ○チ○を持っている》っていう問題が出たんです。女の子もいたのに、みんな“こうじゃないかしら”ってジェスチャーでやってるんですよ(笑)。当時はネットもないですし、乏しい映像記憶に頼らざるをえなかった。出題の裏読みもできない。僕らは半ばヤマカンでYESを選んだのですが、答えはNOで、僕らの3年間の青春は終わりました。実際は、片手を腰に当てているんですよね。まさかこんな問題で落ちるとは思わなかったですね(笑)」
──『高校生クイズ』の経験は、のちにクイズの仕事に役立ちましたか?
「はい! 人生でたった3度しかないチャンスですが、かけがえのない思い出になっています。卒業してからは後輩の高校生のために『高校生クイズ』の問題作成にも携わりました。そして僕自身、全国大会で負けた悔しさもあったので、クイズの実力を思う存分に発揮できる形式を’08年にみんなで考えて、それは『知の甲子園』として話題になりました。いまQuizKnockで活躍している伊沢くんたちの優勝も見届けましたね。
そういえば、福澤朗さんが去年『ザ・タイムショック』に初めて出演するときに、僕がクイズ王としてコーチ役で共演したんです。福澤さんが、“かつての教え子にクイズを教わるという、
新たな目標は東大合格! 浪人するも「人生の中で楽しかった時期かも」
──『高校生クイズ』が終わってしまってからは、その情熱は何か別のことに向かいましたか?
「今でも覚えているのですが、高校にある階段の踊り場で、担任の先生にふと、“僕、東大を目指します”って言ったんです。おそらく、目標が無くなってしまって、何か新たな目標を作りたかったんでしょうね。先生はうれしそうに、“そうか! 絶対行けるから頑張れ!”とおっしゃってくれました。そこから今度はまた、波乱万丈な歳月が始まるんですけれど……(苦笑)」
──学校の成績はどうでしたか?
「よくなかったです(笑)。学年400人の中で、成績はいつも300番台でした。クイズばかりやっていたので、1問1答しか答えられない生徒でした。それでも、それなりに受験勉強をして、成績を上げていって。結果、現役で東大文1を受験したら、見事に落ちてしまいました。でも、センター試験の成績もよく将来有望ということだったのか、浜松にあった予備校の授業料が1年間無料になったんです」
──浪人時代は苦労されましたか。
「いえ、人生の中でもいちばん楽しかった時期かもしれませんね。だって1年中、朝から晩まで勉強してよかったわけなので。2浪、3浪してもいいかなと思ったくらいです。もともと何かに打ち込むとか、勉強することは好きだったので、浪人はまったく苦にならなかったですね。ただ、結果だけは出そうと思っていました」
突然、発症した「パニック障害」。進路を変える? 悩んで出した決断は
──そこから大学受験までは順調でしたか?
「それがセンター試験のときに、ハプニングが起きたんです。センター試験本番の1週間前に、浜松から、会場の静岡大学まで下見に行ったんです。ところが、帰りの電車の中で、突然体調を崩してしまった。それが後にパニック障害の症状だってわかるんですが、当時は何が起きたかわからずに苦しみました。呼吸がうまくできなくて、身体がいうことをきかない。動悸が止まらない、吐き気はする、喉がカラカラで唾液が出ない。”次の駅で降りればいいや”と思ったんですけど、次の駅までなかなか止まらないんです。ついに駅のホームが見えて、途中下車しました。なんとか気持ちが落ち着いて、また電車に乗るのですが、そうすると同じ症状が出るんです。浜松駅まで1駅1駅下車しながら、なんとかその日は帰宅しました」
──センター試験は、無事に受けられましたか?
「そのときは一時的な体調不良で、単なる風邪だろうと思っていたので、1週間くらい寝て治せばいいやって考えていたんです。センター試験当日の朝は浜松駅に受験生たちが集合して、新幹線で受けに行く予定でした。でもまた、あの感覚が襲ってくる。新幹線に乗るのもなんかちょっと怖い。そのうち具合が悪くなり、先生に体調不良を訴えて追試で受けることにしたんです」
──症状が出ている中、大変でしたね。
「センター試験の追試験の会場って、全国に2か所しかないんです。東京か神戸しか選べなかった。それで、東京で受けることにしたんです。追試験の1日目は、世界史、英語、数学Iと、教室と保健室を往復しながらも、なんとか試験自体は受けられていたのですが、最後の数IIでどうしても試験中につらくて、途中リタイア、0点を選びました。ホテルに帰ってから、2日目はどうしようかと迷いました。でも次の日、試験会場の前まで行ったら、あの恐怖の感覚がまた襲ってくる。もう心身的に限界で“今年は身体を休めて、来年受けよう”って決意したんです」
──パニック障害という診断は、いつごろわかったのですか。
「浜松に帰ってから、ずっと相談していた内科の医者にいきさつを伝えてみると“それは広場恐怖症かもしれない”と、聞きなれない病名を言われたんです。詳しく聞いてみると、『パニック・ディスオーダー』、すなわち『パニック障害』と呼ばれる疾患で、多くの人に囲まれた場所や、電車の中など逃げられない場所に行くと、強い不安を感じる症状とのこと。僕は19歳で発症して、25歳の時に一度は症状が和らぎました。その間も、学習塾の講師として人前に立つ仕事をしたり、クイズ番組に出演したりなど、パニック障害を持っていても、うまくコツをつかみながら、ずっと仕事を続けています。いまでも電車に乗れなかったり、美容院に行けなかったりする日はありますが、発症して四半世紀も経ちますし、波があるのは当然なので、うまく付き合って生活している感じです」
──発症のきっかけは何だったのでしょうか。
「いや、わからないです。誰がなってもおかしくない症状だそうで……。でも完全に克服できる人もいる病気です。あのころは珍しい病名だと思いましたが、今は有名人の方でも公表される方が多いですよね。僕も特に隠していません。経験者の方にとっていちばん役に立つ情報は、経験談や、どうやって克服するかの成功体験だったりするんです。なんとか悩んでいる方に力を貸してあげたい、という気持ちが強いですね。将来はそういう活動もしていきたいです。あ、受験の話でしたね(笑)」
──その後の受験生活は、どのようにされたんですか?
「僕自身、せっかく1年勉強してきたので、不完全燃焼という気持ちが強かったです。だから、2浪を決意しました。それを医師に伝えたら、”おそらく、来年また東大を目指すにしても試験場で同じことになってしまうかもしれないから、今年のうちに、試験に慣れるように練習しろ”って言われたんです。東大と同じくらいの偏差値の私立大を選んで、練習してこいと。それで、早稲田大学と慶応義塾大学のどちらかを受けることになり、あみだくじを書いて(笑)、慶応にしたんです」
──慶応の受験は、受けられましたか?
「受けました。いちばん興味のない経済学部を選びました。志望する受験生の皆さんには大変申し訳ないのですが、僕は経済学にはまったく興味がないんです。2浪して東大受験するのを決めたのと、あくまで慶応の受験は “病気に慣れるための経験”なので、万が一受かったとしても行きたくならないように経済学部を選びました。それで願書を出したのですが、その数日間はずっと症状がつらくて寝ているだけでしたね。試験まで何も勉強できない。ただひたすら、布団の中でサザンのアルバムばかり聞いていました。慶応の過去問も買っていないし、試験範囲すら知らない。とにかく無事に東京に行って、試験を最後まで受け終えればOK、という感じだったんです。
そしたら、何とか最後まで受け切れまして、ようやく自分に自信が持てました。でも皮肉なもので、問題がスラスラ解けちゃうんです。1年間浪人して勉強していたのが大きいんでしょうけど、正直に言うと“こんなに簡単な問題だったら、全員満点なんじゃないか”って思うくらい簡単で……。おそらく受かりたい気持ちがなくて、ただ問題を解き終えるだけでいい、とリラックスして受験できたからなのだと思います。問題が難しく見えるのは、“落ちたらどうしよう”と自分を追い込んでしまう緊張感から来るんだろうな、と改めて思います」
──結局、日高さんは慶応に入学しますが、進学を決めた理由は何でしたか。
「うーん……。悩んだのですが、パニック障害の治し方も当時はわからないし、予備校の2年目はお金もかかるし、結局、上京することにしました。実家を出て、生まれて初めてひとり暮らしをするのも不安でしたが、とにかく周りに心配や迷惑をかけることが自分には嫌だったのかもしれません。入学後は、慶応のクイズ研究会に入ったのですが、そこの居心地がよかったんです。病気を理解してくれる先輩方も多くて。クイズ研究会のメンバーがうちに泊まりに来て徹夜でクイズしたりなど、みんなで過ごす時間が楽しかったです」
──大学には何年間、在籍されたのですか。
「2年留年したので、6年間ですね。経済なんて興味がないのに入学していることもあり、ほとんど授業に出なくて教授に怒られてばかりでした。在学中はアルバイトに明け暮れてだんだん大学には行かなくなり、卒業せずにフェードアウトしてしまいました。ただ、大学1年の2月に『アタック25』に出場するまでに、体調はだいぶ回復していました」
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『高校生クイズ』出場から加速した日高さんのクイズ人生。ラストとなるインタビュー第3弾では、日高さんがクイズ作家となったきっかけや、今も学び続けている理由についてお聞きしました。
(取材・文/池守りぜね)
【PROFILE】
日高大介(ひだか・だいすけ) ◎宮崎県生まれ、浜松市育ち。14歳から本格的にクイズを始め、高校在学中に『第14回全国高等学校クイズ選手権』で静岡県代表、大学在学中には『パネルクイズ・アタック25』『タイムショック21』優勝、『クイズ王最強決定戦』準優勝2回など。2006年にはクイズ作家活動を本格的に始動、『クイズ!ヘキサゴンⅡ』『全国一斉日本人テスト』『百識王』などにかかわる。2010年からは『お願い!ランキング』『笑っていいとも!』『行列のできる法律相談所』などのメディア出演を重ね、クイズ王/クイズ作家として500本以上のテレビやラジオに出演。現在は主に『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』『超逆境クイズバトル!! 99人の壁』などのクイズ番組やクイズ特番などに携わる。
◎日高大介オフィシャルHP→https://hidakadaisuke23.fensi.plus/
◎ 日高大介Twitter→@hdkdisk