父が急死し、祖父の養子となり家業を継いでいた麻生要一郎さん。祖父の死後、自分の人生をゼロから見つめ直し、重大な決断をする。そしてそれは、血縁との別れを意味していた。高齢の老姉妹の養子になる、その前の物語。(全5回の第2回)
建設会社の3代目として働いたのち、知人に誘われ新島で宿を始め料理人の道へ。その後、不思議な縁に導かれて高齢姉妹の養子となる。主な著書に『僕の献立』『僕のいたわり飯』(ともに光文社)がある。
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親父殿、天晴れ
祖父が甲状腺癌の手術を終え、自らが創業し苦心の末に発展させた建設会社を父に譲り、大好きなゴルフ三昧の日々を送ろうと決めた矢先、父が急逝した。
死因はクモ膜下出血。父は友人たちとの新年会の際中、頭痛がするので帰ると言ったそうだ。
自宅のリビングで母と僕が呑気にお茶を飲んでいると、車の入ってくる音が聞こえると同時に、玄関のチャイムが手早く2、3回鳴り、ドアがドンドンドンと叩かれた。ただごとではない感じがした。
父の友人が、真っ青な顔をして、状況を説明してくれた。父は高いびきをかいていた。救急車で病院へ向かう時、車窓から見えた夜の街の景色は、何だかぼんやりとかすんで見えた。
集中治療室に、祖父母、叔父も来て、父の最期を看取った。祖父の泣いている姿を初めて見た。集中治療室の扉が開くと、外には会社の役員、幹部クラス、父の友人たちが勢ぞろいしていた。祖父はまたキリッとした顔つきに戻り、最初に外へ出ると状況を説明した。
母が僕を引き留め、涙を堪えながら「泣き顔なんて絶対見せちゃだめよ、そして誰も信じてはだめ」それだけパッと言って、母は深々とお辞儀をしながら、集まってくれた方々に挨拶をしていた。
母と祖父は検死に立ち会い、僕は先に家に戻ると、既に葬儀屋さん、親戚、社員も集まり、庭には弔問用のテントがはられていた。あまりの早い展開に僕は呆気にとられていた。
翌日は早朝から夜まで、弔問客が押し寄せ、近所の空き地は次々に会社が借り上げて臨時駐車場となり、警備員が配置され、近所中の壁にずらりと花輪が立てられていた。帳場には取引銀行が行員を派遣してくれた。
父は45歳、若すぎる突然の死、テレビドラマか映画のように全てが大袈裟だった。お通夜も、地元の飲み屋街のママたちがこぞって訪れ「今夜は大工町(飲み屋街の地名)お休みだなあ」と言う人もいた。
告別式では、お坊さんがずらっと並んで、地元の政治家と呼ばれる人は全員来ていた。斎場へ来るのに市内が渋滞していたと知り合いが教えてくれた。長い弔辞が何人も続き、葬儀委員長は眠りこけていた。
良いとか悪いとかではなく、それぞれが今の状況を利用し合って、当事者の純粋な悲しみはそっちのけ、僕は集中治療室で母に言われたことをゆっくり噛み締めていた。当時の僕は思春期で、父とあまり口をきいていなかった。しかし、その圧巻の様子を見て「親父殿、天晴れ」そんな気持ちになった。
祖父の命令は絶対
当時の僕は大学浪人中。父の勧めでアメリカの大学で経営学を学ぶ予定だった。若い頃はとにかく好きなことをやって、その間に戻ってきたくなるような会社にしておくと言ってくれた。
しかし父の死後、戦中派の叩き上げの祖父に、そんなことは一蹴され、僕は建築の専門学校へ入学。高校から文系だったので、三角関数すら分からないし嫌だったけれど、祖父の命令は僕たちにとっては絶対なので従った。
祖父は会長のまま、専務が社長に昇格、会社に携わっていなかった母も副社長となり、会社はリスタートした。そんな中、将来的なことを考えた周りの大人たちの意向により、僕は祖父の養子になった。
それから、年に1度のペースで祖父の甲状腺に癌ができると、手術を繰り返した。会社を担い、会長としての地位を維持しながら、手術に臨むのは並大抵の精神力ではなかったと思う。退院すれば1日も休まず出社。当時は少しくらい休んだらいいのにと思ったが、今になって考えれば、ひとえに会社のため、そして僕のためであったと思う。
浜松の大学病院、独房のような場所での放射線治療もやった。浜松まで東名高速を2人で何度か走ったのは、今となってはいい思い出。由比ヶ浜の眺めが綺麗で、セルシオのカーステレオからは、いつも美空ひばりが流れていた。今なら楽しく聴けるけれど、当時はそれが凄く嫌だった。
やがて癌は、身体のあちこちに散らばっていった。痛みも相当あったと思う。もう手術には耐えられないと、長年の主治医に言われた祖父は素直に受け入れた。
その直後に迎えた父の7回忌、祖父は酸素吸入器を引きずりながら、大勢の出席者を前にして、渾身の力を振り絞り「要一郎が私の後継者である」という話をした。
任侠映画かマフィア映画のようである。
しかし力を使い果たし、祖父はすぐに入院した。本人も周りも、最後の入院だと覚悟をした。痛みも限界を迎え、主治医の勧めで強い痛み止めを投与、痛みが楽になるのと引き換えに、今までの祖父ではなくなってしまった。
夜中に「図面を持ってこい!」と叫ぶ。誰もがそれを鎮めようとしたが、僕は新聞紙を開いて「平面図です」と言うと、それを図面に見立てていろいろ言いながら、興奮もやがて収まり、穏やかに、そうかそうか、そういうことかと一人頷いていた。きっと若い頃に自分が苦心した現場のことなど回想しているのかと僕は感じた。
悲しいけれど、振り返ってみればかけがえのない時間だった。僕にとって、祖父はおじいちゃんではなく、上司、尊敬すべき会長。まるで映画のように、病室で大勢の人に見守られながら、祖父は天国へ旅立った。
僕は熟考し一瞬で決めた
祖父が亡くなった時、僕がその会社を担うにはまだ若すぎて、僕の立場は当たり障りのない社長室長という役職をあてがわれた。それは、会社の上層部の面々が、自分たちの立場を守ったと言うことも意味する。
パワーバランスを失った会社は、しばらく混乱期が続いた。祖父と僕しか面識のない株主のご隠居が「今日から俺がお前のじいちゃんだ」そう言って、ある大企業の仕事を世話してくれたことは今も感謝している。
ある銀行員は窮地の時「私は今から独り言を言います。気になさらないでください」と言いながら、その時の融資に欠かせない重要なヒントを教えてくれた。
いろいろな人が自分の気持ちで、僕を助けてくれた。まるで『ロード・オブ・ザ・リング』のような20代だった。
成長し、責任も増えていく中、無理をしすぎて、感情は薄れていき、いろいろなことに耐えられなくなり、その道から外れてしまった。手帳に記された予定は10分刻み。僕がやらかしたわけではないのに会社の体裁のために謝罪行脚。従業員の家庭問題の解決。自分の時間はほとんど皆無。同世代の友人たちは、もっと自由で楽しそうだった。
僕には僕の人生がと思いながらも、24時間365日、安定的な立場を守り会社のために生きるのか、それとも24時間365日、不安定でも自分のために生きるのか、僕は熟考し一瞬で後者に決めた。
そして会社を離れることは、自由と引き換えに、さまざまな軋轢を生んだ。僕は祖母から、養子の離縁をされた。情けなさを噛み締めながら、僕の新しい人生はそこから始まったのである。
(第3回は11月4日18時公開予定です)