「このTシャツ、スマホでデザインしたのをプリントしてくれる店で作ったんですよ」
と着ているTシャツを指しながら気さくに話すのは、キーボード奏者の奥野真哉さん(56歳)。音楽好きならテレビや音楽フェスなどで見覚えがあるのでは? 今年で結成30周年を迎えるバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のメンバーでもあり、近年は渡辺美里さん、布袋寅泰さんなどのバックバンドも務めています。
今回は、奥野さんが楽器を始めたきっかけや、1989年に起きた「バンドブーム」と呼ばれる現象についてお聞きしました。
キーボードを弾いたことがなかったのにバンドに加入
──バンドを始めたきっかけは何でしたか?
「中学時代、世はフォークブームでクラスのモテる男子はみんなフォークギターを弾いてて、僕もブームに乗って弾いてはみたんですが、まあ無理で(笑)。それなら下手でもエレキでバンドや! ってことで手始めにキャロルのコピーバンド「チロル」ってバンドを組みました(笑)。バンドとして音を出したのはそれが最初でしたね。その後もいろいろギターやベースでバンドを組んだりしてましたが、話せば長いのでまたの機会に(笑)。そういう感じで最初はギターに憧れていたので、ギタリストになりたいなってずっと思っていました。
そんな中、ニューエストモデル(ソウル・フラワー・ユニオンの前身となるバンド、以下、ニューエスト)は、もともとはギター、ベース、ドラムの3人編成で。モッズ寄りの音楽でカッコよくって、“俺もこんなバンドやりたいな”って思った。それでリッケンバッカーのギターを買ったんです。そのタイミングで、偶然、中川(中川敬。ソウル・フラワー・ユニオンのボーカル)とタワレコで会った。まだ面識がなかったけれど声をかけて、そのまま喫茶店で話しました」
──そこから加入につながるのですね。
「中川に“もう1人、ギター探してんねんけど”って言われて、“弾きます”って即答したんです。1回スタジオに入ったけれど、僕のギターの技術が、あんまり気に入られなかったみたいで(笑)。“また連絡するわ”みたいな感じで終わった。ちょうどスタジオにオルガンがあって、“ピアノ、ちっちゃいころからバリバリにやっていて弾けますよ”ってウソを言ったんです(笑)。’86年くらいで僕は20歳くらいでしたね。ニューエストに入る前に自分のバンドもやっていて、一応リードボーカルだったんですよ(笑)。でもメンバーが留年して続けるのが難しくなっていた時期だった。そのときに中川から“(キーボードで)入らへんか”って誘われたんで即決でしたね、まったく鍵盤なんか弾けないのに(笑)」
──ギターからキーボードに変更しても加入したかったのですね。
「(ザ・ローリング・)ストーンズやザ・ジャム(イギリスのロックバンド)が好きだから、ギターがメインの音楽もやりたかった。でもニューエストに入れるんやったら、別にキーボードでもいいかなって軽く考えていたんです」
──キーボードが弾けなくて加入されたというのは、本当だったのですね。
「そうなんですよ。(テーブルの上で弾く真似をしながら)ほんまに指1本とかで弾いてたんです。もうコードを弾くのも両手でやっていたような感じでした。当時、『明星』(集英社のアイドル雑誌)に付いていた歌本の中に、ピアノのコード表が載っていた。それで“Cはここを押さえる”みたいなふうに覚えていきました。最初のころは曲のスピードも速かったから、もうコードを押さえていくしかできなくて……。とりあえず音が鳴っていれば形になるかなっていう状況でしたね(苦笑)」
──ニューエストのメジャー1stシングル『ソウルサバイバーの逆襲』(1989年)は、オルガンの音が印象的です。
「そこまでのレベルに行くのにすごい練習せなあかんくて、『R&Rオリンピック』(’80年代から’90年代にかけて宮城県で開催された音楽フェス)のときも、俺、泊まっている部屋にピアノを持ち込んで、1人でライブ終わってからも練習しているみたいな状況やったからね」
──同年代のバンドメンバーたちは飲んだりしていたのではないですか?
「そうそう! 山荘みたいなホテルで前日から2バンドずつ一緒に泊ったんですよ。僕らはThe ピーズ(1987年結成のロックバンド)のメンバーと一緒だったんですが、なんか夜におもちゃのゲームをやったんです。負けたほうが日本酒を一気飲みする罰ゲームを作ったら、次の日はみんなすごい二日酔いになったりして(笑)。でもその後、ピアノ練習するみたいな(笑)」
──バンドブーム時代は、ニューエストもアイドル的な扱いを受けることはありましたか?
「結構アイドルでしたよ(笑)。なぜか仙台で人気があったんですよ。レコード会社の営業所が頑張ってくれて、よくレコード店にあいさつ回りに行ったんです。1軒目のレコード店に行くと、次のレコード店に行くまでにもうファンが長蛇の列で俺の後ろに付いて来たりして。あの方々はどこに行ったんでしょうか(笑)」
──本当にアイドルのような状況だったのですね。
「うーん、まあ、調子に乗りますよね(笑)。でもバンドとしてはブームのひとつと見られるのをすごく拒否したいっていう気持ちもあった。例えば、周りからは『ビートパンク』って呼ばれていたけれど、“俺らはソウルパンクや”みたいな。中川は雑誌のインタビューでも、バンドの実名を出して批判したりするから、その界隈にすごく嫌われていたかもしれないけれど(笑)。でもイベントで共演することも多かったし、世代も同じだからみんな仲はよかったんですよ」
レコード会社の契約が切れて、バンド以外でもキーボード奏者に
──演奏については、スランプなどの時期はありましたか?
「’88年ごろまでは、オルガンで乗り越えていたんですよ。周りから”うまいね“って言われていい気になっていたら、ボ・ガンボス(1995年に解散したどんとをボーカルとする伝説のバンド)が出てきたんです。KYONさん(ボ・ガンボスのキーボード)のうまいピアノを聴いてしまったら、中川も“これからはブギウギやろ”って言いだして(笑)。そこからピアノも弾かないといけない雰囲気になった。でもどう弾いていいのかわからへんし、オルガンとは違うんですよ。オルガンは押さえれば音が出るけれど、ピアノは鍵盤(のタッチ)も重い。周りにキーボード奏者もおらへんし、自己流極まりない感じで’89年ごろはいっぱい練習していましたね。自分でもまじめだなって思っていました。ていうか弾けないんで(笑)」
──大阪で結成されて、上京されたタイミングはいつごろだったのですか?
「最初のころは上京せずに、ずっとみんな大阪に住んで、ライブや仕事のときだけ上京していたんです。バンドブームとは違う活動をしているって表したかったし、“なんで東京行かなあかんねん”って思っていた。僕は2002年に東京に来たのですが、今も、中川は大阪です」
──奥野さんが上京されたきっかけは何でしたか?
「結局、“全部ずっと東京で仕事しているな~”って思って(笑)。どう考えても東京行ったほうが効率いいなと。あとは’97年にソウル・フラワーがレコード会社と契約が切れたから。広島の居酒屋で、事務所の社長から“来月から給料が出ないんで、各自頑張ってください”って言われたんです(笑)」
──以前、フムニューでお話を聞いたフラワーカンパニーズのグレートマエカワさんも、同じようにレコード会社から契約終了を言われたと話をされていました。
「よくある話かもしれないですね(笑)。僕は運よく、自分のバンド以外の仕事をいただいたんです。最初にBONNIE PINKのレコーディングやツアーの仕事を社長が取ってきてくれて。そこから今のキーボード奏者としてのキャリアのスタートですね」
“caption”>奥野真哉さん 撮影/山田智絵
──いくつものミュージシャンのサポートを担当していると、スケジュール調整も大変なのではないですか。
「ソウル・フラワーの活動を第一にして、ほかの仕事を調整しています。基本的にはスケジュールが合えば参加するっていうスタンスです。でも“俺が弾かんでも別にええんちゃう?”みたいな仕事が来たら考えることもあるけれど、そういうのも今やなくなりましたね」
──バンドとソロ活動の違いはありますか?
「音楽活動って、バンドになると各個人の生活やら、ある種、人生も共有せなと思うんですね、長年続けてると。各メンバーの生活面の負担もクリアしていかないと続けていかれへんから、今までどおりのペースでバンドを続けるっていうのはやっぱりすごく難しいですよね。コロナもあったし。でも、やっぱメンバーで集まって音を出してるときの満足感や、何と言っても自分が唯一いるべき場所やから、頑張れる部分がありますね」
奥野真哉として紅白出場4回!
──実は『NHK紅白歌合戦』に何度も出演されたことがあると聞いたのですが……。
「僕ね、4回出ています、ウルフルズ、ボニー(BONNIE PINK)、エレカシ(エレファントカシマシ)、布袋(寅泰)さん……。出場回数で言えば、奥野真哉(4)なんですよ(笑)」
──紅組にも出場されている人は珍しいですよね。どういうきっかけで演奏されたのですか?
「最初にお話をいただいたのが2001年のウルフルズでした。普段、メンバーとして弾いているミッキー(キーボード奏者の伊東ミキオ)が、別のカウントダウンライブがあって出演できなかったからなんです。そうしたら、トータス(松本)から“ちょっと頼むわ”って言われた。このときの紅白って、俺にとっては大きな出来事だったんです」
──どのようなことが起きたのですか。
「俺が音楽をやっていることを、親はずっと受け入れていなかったし、かなり疎遠な感じやった。でも紅白に出たのを見て、まぁなんとか仕事としてやってるんやなと認めてくれたんとちゃうでしょうか。それからは“いつになったらちゃんと就職するねん”って言われなくなったし(笑)」
──よく、紅白に出場した方が「親孝行できた」と言っていますよね。奥野さんは大舞台などでは緊張されますか?
「しますね。周りからはしてないように思われるんですけれど、普通にしますよ。でもボーカリストとはプレッシャーの違いはすごくあると思いますね。僕らは楽器の電源を入れたら音が出るけれど、ボーカリストは歌わないといけないじゃないですか。そこは大きいと思いますね」
──ちなみに、エレカシとはどのようにして交流が始まったのですか?
「デビューが同期で、何かと雑誌などでは一緒に載ることも多かったんですが、お互いアクの強いバンドやったんで(笑)なかなか接点がなかったんです。それが、1966年生まれのミュージシャンが集まったイベント(『ROOTS 66 -Naughty 50-』2016年開催)で、僕がバンマス(バンドマスター。バンドでリーダー的役割を担う人)をやったんですよ。そのとき、イベントに出演していたエレカシから“キーボードを弾いてほしい”って言われたのがきっかけかなあ」
──音楽ジャンルもバラエティ豊かですよね。
「ちっちゃいころから、周りを笑わすのが好きだったんです。みんなの笑顔が好き、音を出すときも同じ気持ちですね。そういうキャラクターみたいな形でジャンルを超えて受け入れられていると思うねんけどね。ま、面白いからだけで呼ばれてるとは思いたくないんやけど(笑)。僕に優れている部分があるとしたら、どの現場に行っても、こういう役割をしたら相手にとって喜ばれる、プラスになるやろなっていうことを察する能力に長(た)けているんやと思います(笑)。ただ基本、どのアーティストとやっても自分のバンドやという気持ちでやってます」
◇ ◇ ◇
日本のロック界を縦横無尽に駆け回る奥野さん。次回はその活動の柱となるソウル・フラワーのメンバーとして、東ティモール、パレスチナ、北朝鮮で演奏されたときのエピソードや、名曲『満月の夕』が誕生した経緯などをお聞きしています。
【*後編→「街中は銃弾の痕だらけ」東ティモールや北朝鮮で演奏したソウル・フラワー・ユニオン奥野真哉が見た光景】
(取材・文/池守りぜね)
《PROFILE》
奥野真哉(おくの・しんや)
1966年12月2日生まれ、大阪府羽曳野市出身。ミュージシャン、キーボーディスト。’93年に結成されたミクスチャー・ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のメンバー。’86年、中川敬が結成したニューエスト・モデル(ソウル・フラワー・ユニオンの前身バンド)に加入。’93年の解散までキーボーディストを務める。’93年より引き続きソウル・フラワー・ユニオンで活動。2001年からは、うつみようこ&YOKOLOCO BANDにも参加。木村カエラ、BONNIE PINK、小泉今日子、アンジェラ・アキ、毛皮のマリーズ、斉藤和義ら数多くのアーティストの演奏・プロデュースや、布袋寅泰、渡辺美里などのサポートバンドとしても活躍中。
■ソウル・フラワー・ユニオン 「結成30周年記念ツアー・夏篇」
・6月17日(土) <京都> 京都 磔磔
OPEN 17:30 / START 18:00
問:GREENS 06-6882-1224
GREENSホームページ
・6月24日(土) <東京> 新代田 FEVER
OPEN 17:30 / START 18:00
問:SOGO TOKYO 03-3405-9999
SOGO TOKYOホームページ
■【有料配信】
ソウル・フラワー・ユニオン 「結成30周年記念ツアー・夏篇」東京公演
・6月24日(土) <東京> 新代田 FEVER
OPEN 17:30 / START 18:00
視聴チケット購入URL
アーカイブ: 6月30日(金)23:59まで
配信は「Streaming+」にて
※3公演ともチケット発売中