大学時代だけの音楽活動のつもりが、卒業後にプロを目指す

──結成当初から今のようなスタイルだったのですか。

フラカンを始めて最初の1年くらいは割と可愛い感じの歌詞でしたよ。俺や竹安はそれが嫌だなって思っていたから(笑)。そんな時にエレファントカシマシの音楽に出会ったり、URC(注:アングラ・レコード・クラブ。フォーク歌手の遠藤賢司や三上寛が所属していた会員制のレコードクラブ)の復刻CDが発売されて、強烈な歌詞を書いている人たちの音楽をみんなで聴いて衝撃を受けて。そのあたりから、鈴木の歌詞も変わっていきましたね

──音楽活動は順調だったのですか?

「鈴木は大学を卒業しても音楽活動をやっていこうと思っていたみたいだけれど。鈴木は『ベストアイドル賞』を取ったくらいなので(笑)、それなりに人気もありましたから。ワンマンライブができるようになったのが、結成して3年後くらいかな。親には申し訳ないけれど、大学に在学しているうちはバンド活動をやろうって思っていました。音楽で食べていけたらいいなって思いつつ、“そんなの無理だ”とも思っているから、大学4年の時に僕は進路に悩みました」

──就職せずに音楽で食べていこうと決めたきっかけはありましたか?

「'90年に出たコンテストで、ソニーの新人発掘の担当に気に入られて、東京のライブにも呼んでもらったりしていたんです。今と違ってCDを自分たちで出すって難しかったんですよね。だから“CDが出せるかもしれない”っていう話になった時、そこでもう就活はやめました

──ライブなどでも手ごたえがあったのですか?

ある時出たイベントで、フラカンがいちばん盛り上がって。翌日、母に“バンドやりたいから就職はしない”って話したんです。“え〜!”ってびっくりされて、悲しい顔をされたのは忘れられません……。でも、“よし、バンドでやっていこう”って思いましたね

グレートマエカワさん 撮影/山田智絵

──私がフラカンを知ったきっかけは、音楽ライターとして活動されている兵庫慎司(フラカンのバンドヒストリー本著者)さんの『ロッキング・オン・ジャパン』のレビューを読んだのがきっかけでした。

昔は音楽ライターが推しているアーティストを好きになるっていう文化がありましたよね。デビュー直後のツアーで福岡でライブやったらお客さんが7人で、僕らを何で知ったか聞いたら“兵庫さんファンなんです”って4人から言われたんですよ(笑)

──まだYouTubeやサブスクがなかった時代だから、音楽雑誌の影響力が大きかったですよね。

「'94年に上京して、1年後にソニー内のアンティノスレコードからデビューしたんです。そこからデビュー2年目で『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系で1994年~2012年まで放送されていた音楽番組)に出演できたから、運がよかったなとは思います」

──当時はテレビCMもよく見かけましたね。フラカンはすごくメディアに露出していた印象があります。

「タイアップも付いていたりしたからね。あの頃はスペースシャワーTVでレギュラーもやらせてもらったりしました。今となってはプロモーション活動も、よくしてもらっていたと思いますね。最初のメジャー契約ではアルバムを6枚出して。4枚目の『マンモスフラワー』('98年発売)がそこそこ売れたけれど、宣伝費をかけたから本当はもっと売れないとダメだったんですよね。それで“契約を終了することになった”って言われるんです

レコード会社の契約終了。4人だけの体制に戻って再スタート

──2001年にメジャーを離れたわけですが、レコード会社からの契約終了は急に告げられたんですか?

最初からアルバム7枚の契約だったけれど、7枚目のレコーディング中に、レコード会社から“うちからは発売ができなくなった”って言われたんですよ。レコーディングした音源は僕らにほぼあげる、くらいの価格で僕らに譲ってもらえたんです。ちょうど僕らが30歳を越えたぐらいの頃で、半年後ぐらいまでは給料を毎月1万円ずつ少なくしていくけど支給するから、その半年の間に続けるか辞めるか考えろと言われました。さらに、“今だったらまだ30過ぎだから、他のこともできるだろうし、バンド活動を続けるのならメンバー4人でやってみたら?”って言われて、“じゃあ考えます”って言いましたね」

──当時のバンドの雰囲気はどのような感じでしたか?

「5枚目のアルバム(『Prunes & Custard』1999年発売)の時期は、ライブでもMCをあんまりしなくなったんです。それまでちょっとクスッと笑えるような音楽が好きだったけれど、音も今までよりは硬派な感じで作った。そうしたら動員も少なくなるし、セールスも下がってきてしまって。ちょうどメロコアと呼ばれる新しい勢力がどんどん出てきていて、“そうなると俺たちの居場所はないな”と迷い始めました。音楽業界に対してちょっとやけっぱちになりそうなところもあったかもしれない。でもバンドに対して諦めがあったわけではなかったんですよ。ただ、“シーンに居場所がない”って感じていました

──周りの環境も変わっていったのですね。

「6枚目のアルバム(『怒りのBONGO』2000年発売)のツアー後にマネージャーがいなくなったんです。物販やライブのブッキングとか制作をやるようになったのは、レコード会社も事務所もクビになって4人になってからかな。それまではPAや楽器のローディーをしてくれるスタッフもいたけれど、契約が切れてメンバー4人だけになったっていうのを全国のイベンターやライブハウスに電話して話したんです。全国をツアーで回りたいんだけれどどうしたらいい? って