2019年12月に81歳で亡くなった昭和の銀幕スター、梅宮辰夫さん。大の料理好きとしても知られ、約20冊もの自作レシピノートを遺した。父親とは正反対に、料理にまったく興味がなかったという娘のアンナさんは、辰夫さん亡きあと初めて真剣に父のレシピと向き合うことに。辰夫さんの三回忌を前に、1年ぶりに「fumufumu news(フムフムニュース)」のインタビューに答えてくれた。
父の味を受け継いでいきたい
実はこのレシピノート、20年前に1度、父から嫁入り道具として託されているんです。
「こんなのいらない! 現金がいい!」って、当時、冗談まじりに文句を言ったのを覚えています(笑)。でも父は「これさえあれば、人生うまくいくから」って、なかば無理やりのように私に持たせました。そんな父の思いもむなしく、1年ちょっとで離婚してしまいましたが。
離婚成立の翌日、疲れ果てて放心しているわたしに父がまず言ったのは「あのノート、返せ」のひと言(笑)。「今日それ言わなくてもいいじゃない!」って腹が立つやらおかしいやら。いま思えば、それだけこのノートは父にとって大切な宝物だったんでしょうね。
改めてノートを見返してみると、父特有の几帳面な文字がびっしりと並んでいて、胸がいっぱいになりました。1冊に100ほどのレシピが載っていて、それが約20冊だから全部で2000ものレシピ! いちばん初めに書かれたノートは、もう30年以上前のものです。
父がレシピの参考にしたのは長年、定期購読していた『dancyu』や『家庭画報』の雑誌だったり、料理番組だったりさまざま。よく行くお店の板前さんやシェフ、友人から教えていただくこともあったみたい。それを自分なりにアレンジして、あとから何度もメモを書き加えたりしていました。
父が亡くなって1年ほどは、相続の手続きや引っ越しで目まぐるしい日々を送っていました。ようやく落ち着いたころに、このノートを開いてみたんです。あぁ、これよく作ってくれたなぁ、これを初めて食べたのは小学生のときだったなぁ、なんて、次々と思い出がよみがえってきて……。父の味を受け継いでいきたいと、自然とわたしも料理を始めるようになりました。
とはいえ、父の料理はいわゆる家庭料理と違って、時間がかかる凝ったものがほとんど。それでも、レシピのなかには比較的簡単に作れるものもありました。これなら私でもできる! と思ってチャレンジしてみたら、本当においしくて。父が愛した料理を、みなさんにも知ってもらいたい、形にして残したいと思い、三回忌を前に本を出版させていただくことになりました。2000以上ものレシピのなかから、初心者でも手間なく作れるものを中心に選んでいます。
レタス丼・マグロの漬け丼・タコポキ丼・我が家のロールキャベツ
パジャン・タコとプチトマトの炊き込みご飯
みそ汁3種(玉ねぎの白みそ汁・しじみのみそ汁・わかめの白みそ汁)
じいじのステーキ・我が家のアンチョビーサラダ
タイ風春雨サラダ・牛テールスープ・キムチスープ
さっぱりとん汁・2種のタレの水だき・きりたんぽ鍋
おひたし・五月豆・こんにゃくのこぶ締め・こんにゃくのピリ辛炒め
ちりめんじゃことピーマン炒め・いとこんにゃくの炒めもの
焼きさんま・鮭のかま焼き・きんきの煮魚
いかめし・我が家のあさり酒蒸し・ホタテのマリネ
すだちそば・山盛りキュウリの冷やし中華
我が家のちらし寿司・フライパンローストビーフ
焼きバナナ・大根の皮漬け……など
毎日同じお弁当が6年間続いて
父の料理にまつわるエピソードは尽きませんが、なかでも強烈なのはお弁当の思い出。わたしは中・高と6年間、給食のない学校に通っていました。父は朝早い仕事のとき以外は必ずお弁当を作ってくれたのですが、なんとこれが毎日同じメニュー!
二段の重箱弁当で、一の重はのり弁。といっても、ごはんをよそってのりをのせるだけではなく、ごはん、のり、ごはん、のり、ごはん、のり、と決まって三層のミルフィーユ状態なんです。しかも、のりは小さく小さくハサミで切って重ねるのが父のこだわり。忙しい朝も、決して手間を惜しみませんでした。二の重は、ヒレ肉のステーキに卵焼きと焼きたらこ、そして彩りに紅ショウガ。このまったく同じお弁当が6年間続きました。
お友達は「豪華でいいなぁ!」「おいしそう!」と口々に言ってくれましたが、いい加減わたしは飽き飽き。お友達のお弁当に入っている、かわいらしいレトルトのミートボールや、サンドイッチなんかがうらやましくて。そこで思いついたのが、お弁当のトレード。父のお弁当は大人気で、「来週は私の番よ!」なんて順番待ちができるほど(笑)。しまいには先生も巻き込んだりして、楽しかったなぁ。でも当時、父にはそのことを言えなくて、自分が食べたふりをしていたんです。大人になって父に打ち明けたときは「えぇっ……!」って、絶句していましたね。
父のレシピのおかげで料理が楽しくなってきて、最近はぬか漬けにもハマっています。父はぬか漬けが大好きで、台所の床下に置いたぬか床を毎日かきまぜていました。わたしはもっぱら食べる専門でしたが、いざ自分で作ってみると、これがなかなか大変。父のこだわりどおり、冷蔵庫ではなく常温で漬けているので、管理が難しくて。この時期(※取材は10月)は急に寒くなったかと思えば暑さがぶりかえすなど気温の変動が激しいので、気が抜けません。東京の自宅と真鶴の実家を移動するときにも、ぬか床を抱えていたら「なんだかパパみたいね」と母に笑われてしまいました。
真鶴の家に母と住むことを決めました
実は最近、生活に変化がありました。1年前のインタビューでは「父が亡くなったのを機会に、これから梅宮家の女たちは3人とも自立して、ひとり暮らしを始めます」とお伝えしました。
いったんは実現したのですが、母が結局さみしさに耐えきれず、2か月もしないで私の部屋に引っ越してきてしまったんです。
そんな紆余(うよ)曲折があり、しばらく都内で母とのふたり暮らしを続けてきました。でも、仕事のために都内の賃貸の家賃を払い続けながら、父が生前愛した真鶴の家も管理するのは金銭的にも大きな負担です。現実的に考えると、父には申し訳ないけれど、真鶴の家を手放すしかないと思ったんです。
売却を考え、真鶴の家に内見のお客様をお迎えしたときのこと。父が多くの時間を過ごしたキッチンを案内していると、吊るしておいた父のフライパンだけ、いきなり大きな音を立てて床に落ちてきました。触れてもいないし、風も吹いていないのになぜ? とびっくりしていたら「もしかしたら、お父さんが怒ってるのかな」とお客様に言われてしまって……。同じタイミングで庭の木が突然腐ってしまい、安全のために撤去しなければならなくなりました。なんだか、本当に父が悲しんでいるような、私たちに「ここを守ってほしい」とメッセージを送っているような気持ちになったんです。
正直言って、若いときは真鶴の家が好きではありませんでした。思い返せば、父の漬物愛が高じて生まれた「辰っちゃん漬け」の成功にちなんで、「漬物御殿」なんて呼ばれていたことも(笑)。いまだって、仕事のたびに真鶴と都内を往復するのは不便です。でも、自宅の窓からビル群が見える暮らしより、海が見える暮らしのほうが、いまの私たちには合っているのかなと思えたんです。父の思い出を守りたい気持ちもあり、母とふたりで暮らしていた都内の賃貸を思い切って引き払い、真鶴の家に住むことを決めました。
母に甘かった父と違って、私はスパルタ
父が亡くなって、この2年でもう何回引っ越ししただろう(笑)。家族がそれぞれに自立するのが最善だと思っていたから、物件を探して、日用品をそろえて……。余計な苦労もしたけれど、回り道して初めて、大切なものが見えた気がしています。だから、これまでのバタバタも決して無駄だったとは思っていません。
生活のことはすべて父に任せきりだった母も、この2年でずいぶんたくましくなりました。母に対して甘かった父と違って、私はスパルタ(笑)。いまでも、ワンちゃんのごはんを間違えたり、白い衣類と色柄ものを一緒に洗ったりして、わたしに怒られることはしょっちゅうだけど、ボケさせないためにあえて、母にも家の仕事をしてもらっています。
父が遺したものを守りながら、母を支え、すべてひとりの力でやっていかなければならないことは思った以上に大変。でも、だからこそ「生きている!」という実感が湧いてくるんです。
いまは自分という人間に向き合うのに精いっぱいで、相変わらず恋人もいません(笑)。けれど、父のレシピノートを形にするうえで、食を通じて多くの素晴らしい方々との出会いがありました。最近は農家さんと畑づくりの相談をすることもあり、とても充実した日々を送っています。真鶴に住むにあたって、地方を元気にしたいという思いも芽生え、挑戦してみたいことが次々と生まれてきます。
家族を守ってくれた父がいなくなり、ひとりになったここからが、私の人生の本当のスタートライン。そう感じています。
(取材・文/植木淳子)
※関連写真ページで梅宮アンナさんの貴重な家族写真を公開します。
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▼梅宮アンナオフィシャルブログ『anna style』
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