日本の代表的な文化として確立した「漫画」。「俺さ、マンガとか1冊も読んだことねぇから」という圧倒的な世捨て人は、なかなかいない。実は、漫画は古くから日本人にとって、常に生活の隣にあったものであり、マンガ史を知ると、日本人の暮らしがだんだんと見えてくる。
そんなマンガの歴史を遡(さかのぼ)っていくこの企画。初回では平安時代から江戸時代までを振り返り、「漫画はもともと“なんかひょうきんでサクッと描かれた絵”のことであり、当時からサブカル的位置づけにあった」ということを紹介した(第1回:意外と知らない漫画の歴史! “変人”らが築いた文化がいつしか「大衆の楽しみ」へ)。
今回は、鎖国が解かれて西洋文化が入ってくる「明治・大正時代」について見ていこう。漫画にコマ表現や吹き出し、キャラクターが出てくる面白い時代だ。
欧州由来の風刺画「ポンチ絵」が大ブームに
江戸時代の終わりといえば「明治維新」だ。鎖国が終わると同時に、海外の文化が一気に入ってくる、ワクワクする時代である。当時の人たちが、ホントうらやましい。タイムスリップできるならペリーに会いたい。たぶん緊張して挙動不審になり「わ、わ、わっちゃーねーむ?」とか言っちゃいそうだけれども。周りの武士も「悪意なさそうだが、コイツ、なにやつ? 初見なんだが」みたいな目で見てきそうだけれども。
まぁそんな話は置いておいて、当時のカルチャーの話に戻ろう。まず、西洋からの影響をしっかり受けたのは日本文学だった。浮世草子をはじめ、江戸文学は「お主も悪よのぉ」からの、「悪を成敗(せいばい)いたす!」という”ご都合主義的な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)もの”が主流。『水戸黄門』とか『暴れん坊将軍』のような感じだ。
しかし、坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)や二葉亭四迷(ふたばていしめい)といった文豪たちが「いやいや、そんなにうまくいかないから。海外文学みたいに、もっとリアリティーを持ってやらないと」と写実主義(現実主義)を唱え始める。
では、江戸時代には主に「鳥羽絵(とばえ)」と言われていた「漫画」は、どう変化するのか。その背景には、2人の外国人がいた。
明治時代のキーマンのひとりは、チャールズ・ワーグマンというイギリス人の報道画家だ。彼は江戸時代から日本におり、時事ネタをイギリスに送る仕事をしていた。朝の情報番組でよくある「では、現地の様子を聞いてみましょう! ニューヨークの〇〇さーん!」的な仕事だ。
そのころに世界じゅうで人気になっていたのが、イギリス発信の『パンチ』という雑誌。各国の情勢を、風刺画でおしゃれに描いていたんです。
「コレ、ジャパンでウケそう」と考えたワーグマンは1862年、横浜で『ジャパン・パンチ』を創刊する。これが当時の日本人には新鮮で、すごく面白がられた。
あとを追うように、国内の新聞でも西洋チックな風刺画が出てきて「ポンチ絵(パンチがちょっとなまっちゃった)」と呼ばれて親しまれるようになっていく。当時の人からしたら「新感覚の浮世絵」だったわけだ。
で、その20年後くらいにもうひとつ、重要な雑誌が創刊する。それが、フランス人の画家・ジョルジュ・ビゴーが創刊した『トバエ』だ。名前の由来は江戸時代に流行(はや)った漫画の前身、「鳥羽絵」である。前回の記事で紹介した平安時代の鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は、なんとこの時代まで名前が使われている。通称「漫画の元祖」はダテじゃない。
ビゴーはフランスで暮らしていたときに、いわゆるジャポニズムに興味を持って来日する。日本文化が大好きなおじさんで、サムライの格好で撮った肖像が存在するほど。
『トバエ』掲載作品のなかで有名なのは『魚釣り遊び』だろう。日本史の教科書なんかでしこたま見てきた作品である。ビゴーはジャーナリズム精神も強めで、最後のほうは日本政府から「さすがにわが国のこと、いじりすぎだわ」などと怒られながらも風刺画を描いていた。
『ジャパン・パンチ』と『トバエ』によって「ポンチ絵」は大人気となり、1800年代終期から1900年代初期にかけて、国内では「風刺雑誌」がめちゃくちゃ盛り上がる。
『絵新聞日本地(にっぽんち)』や『團團珍聞(まるまるちんぶん)』『滑稽新聞』『東京パック』『上等ポンチ』『凸坊漫画』といった雑誌が次々に日本人によって創刊され、それぞれ「ユーモラスに政治・経済を斬っていく」というスタイルが人気になる。
ここで重要なのは、「ポンチ絵」を皮切りに国内が「風刺を見たい」でなく「ポンチ絵を見たい」という雰囲気に変わったことだろう。新聞や雑誌に漫画が載るようになり、「風刺があるかどうか」ではなく「ユーモアがあるかどうか」に視点が移っていき、今にも通ずる「漫画文化」が一般的に認められていく。
一枚絵から、ストーリーのついた「漫画」へ
さぁ、そんな明治時代が終わり、大正時代。1枚でバーンと風刺する「ポンチ絵」に、だんだんとストーリーがついてくる。
まず、平安時代から「戯画」「嗚呼絵」「略画」「鳥羽絵」「狂画」「ポンチ絵」と、いろいろな名前だったのが、この時代からようやく「漫画」と呼ばれ始める。
実際には、江戸時代から「漫画」という言葉自体はあった。しかし、一般化したのはこの時代。普及にひと役買ったのが『時事新報』という日刊新聞である。そこで風刺画を描いていた今泉一瓢(いまいずみ・いっぴょう)が「英語のカートゥーンの和訳は『漫画』だ」とする。そして、彼の後を引き継いだ北澤楽天が「コミックの和訳は『漫画』だ」と言って使用し始めた。
実際、大正初期の発行物を見ると「ポンチ」と「漫画」という言葉が並んでいたが、大正10年ごろには「ポンチ」を見なくなる。今ではみんな普通に「漫画」という言葉を使うが、呼称が定着したのは意外と、ここ100年くらいの話なのだ。
漫画の原型を作った立役者たち
さて、「漫画」という呼び名が定着するなか、いよいよ一枚絵の風刺画から抜け出して、今の漫画に近い表現が出てくる。その背景には岡本一平と、先述した北澤楽天という2人の人物がいた。
岡本一平は「芸術は爆発だ」と発した岡本太郎のお父さんとして有名な人ですね。もともとは朝日新聞社の記者で、「漫画漫文」と名づけて、一枚絵の下に100字くらいの文章をのせるスタイルで描いていた。
岡本一平が進化させたのが「コマ割り」の表現。彼は自分の作品を「映画小説」として、コマの移り変わりでストーリーが進んでいることを表現したのだ。つまり、映画のフィルムをヒントにして、コマ割りにストーリー性を持たせたわけである。
確かにいま見てみると、漫画のコマは映画のフィルムにめっちゃ似ている。岡本一平の功績は「コマと吹き出しでストーリーを進めていくスタイル」を定着させたことだ。
そしてもう1人、岡本とほぼ同時期に漫画のアップデートを進めていたのが、北澤楽天だ。彼は先述したとおり、「コミックを初めて『漫画』と訳した」ことでも知られている。
彼の最大の功績は「魅力的なキャラクター」を作り上げたことだ。ドジで愛嬌(あいきょう)のある中年「丁野抜作(ていの・ぬけさく)」や、東京の都会っぷりに戸惑う田舎者の「田吾作と杢兵衛(もくべえ)」、わんぱく少年「茶目と凸坊」などの人気キャラを生み出した。
コマ割りと吹き出しはもちろん、「マンガに固定のキャラクターがいて、お決まりの流れで笑わせてくる」というのが北澤楽天の得意分野であり、当時は発明だった。例えば今でいう『ドラえもん』であれば、「のび太という怠け者のキャラクターが、何かあるたびに泣きながらドラえもんに助けを求める」というようなキャラクターを構築したのである。
「新聞4コマ」から漫画の市民権を獲得した2作品
さぁ、この2人から今の漫画の土台である「ストーリーに沿ったコマ割り」「セリフの表現」「愛せるキャラクター」などが進化した。コマの中にセリフがあるなど、だいぶ今のスタイルに近づいてきた。
ただ、まだまだ今のように長編のストーリーを描いていたわけじゃない。例えば、北澤楽天の『丁野抜作』は3~6コマくらいの漫画だったように、大正期の漫画は多くても8コマくらいが上限だった。ようやく「1コマ漫画」から抜け出したが、短編の枠に収まっていたのである。
そんな漫画が飛躍するきっかけになったのが、私たちにもおなじみの「新聞4コマ漫画」だ。新聞の左上に漫画枠が掲載されるようになったのである。
まず、1923年に『東京朝日新聞』で、『正チャンの冒険』という作品が連載され始める。イギリスの『デイリー・ミラー紙』で連載されていた『ピップ・スクウィーク・アンド・ウィルフレッド』をモデルにした。
「少年とペンギンが冒険する漫画」をヒントに「少年とリスが冒険する漫画」を描くという、ちょっとグレーな試みだったが、タッチがめちゃめちゃ西洋絵本風で可愛らしい。この漫画は当時、社会現象になり、主人公の正チャンがかぶっている、大きなボンボンがついた毛糸の帽が子どもたちの間で大流行したほど。今でいうと『鬼滅の刃』の緑と黒の市松模様マスクをつけている子どもがたくさんいる、みたいな感じである。
『正チャンの冒険』は吹き出しだけでなく、コマの下にキャプション(説明文)をくっつけるのがスタイルになっていて、例えば「正チャンがリスをカバンに入れる絵」の下に「正チャンはリスをカバンに入れますよ」と文字で説明が入る。
「いや、言わなくてもわかってますから!」とツッコみたくなるが、このキャプションこそが「絵と吹き出しだけで伝わるかなぁ」という新聞4コマ黎明(れいめい)期の不安のあらわれなのではなかろうか。
また、ほぼ同時期に『報知新聞』の夕刊で連載をし始めたのが『ノンキナトウサン』だ。この作品も『親爺教育』というアメリカの漫画をモデルにしている。
『ノンキナトウサン』と『親爺教育』を見比べるとわかるが、ほぼ完全に描き方をまねているのが特徴で、キャプションがなくなり、ついに完全に吹き出しのみでストーリーが語られるようになる。また、横書きで「左から右」に読む方式を採用して「ンサウトナキンノ」から「ノンキナトウサン」となった。
『ノンキナトウサン』は1923年の11月から連載が始まったが、この時期は関東大震災の直後で、日本全国が混乱や悲しみに包まれていた時期だった。そこで、ノンキナトウサンという、どんな困難も楽しみながら乗り越えちゃう、『こち亀』の両津勘吉的なキャラは強烈に支持される。
ちょっとマヌケで可愛らしい中年男性を「ノントウ」と呼び、これが流行語になった。連載前は40万部だった報知新聞の発行部数は『ノンキナトウサン』の連載開始後、70万部まで伸びたそうだ。ストーリー漫画がいよいよ、世の中に対して大きな影響力を持ち出したのである。
さて、今回はコマ割り、吹き出し、キャラクターなどが確立されて、だんだんと今の漫画に近くなってきた明治大正期の漫画について紹介した。
セリフすらない「単純な線でユーモラスに描いた絵」を「漫画」と呼び、ようやく短いストーリーがある漫画ができたのが「たったの100年前」なのである。まだ数コマ単位での表現からは抜け出せていない。「ここから100年で、どうやって『呪術廻戦』や『東京卍リベンジャーズ』までたどり着くんだ……」という感じだ。それほどまでに戦後から令和にかけて、漫画表現はハンパないスピードで進化した。
では、次回はいよいよ手塚治虫の登場である。彼がなぜ「漫画の神様」と呼ばれるのか、そしてどのように漫画をアップデートしたのか、というところについて見ていこう。
(文/ジュウ・ショ)