それでも、仲間たちと飲みに行けないことは、かなりのストレスになったようだ。
「コロナのいちばんよくないところは、人と人との触れ合いをやめさせたことでしょうね。好きに旅行もできなかったでしょ。旅行ってのは家族でするだけじゃないんですよ。何十年も前に卒業した学生時代の仲間と一泊でどこへ行こうかとか、町内のお年寄りたちが集ってバス旅をするとか、そういうのが本当の旅行なんだ。くっついてしゃべって、笑いあって。それが楽しいわけですよ。
今は寄席も再開したけど、前から2列目くらいまではお客を入れない。あたしたちが唾(つば)を飛ばすからね。これを『飛沫の刃』と言う(笑)」
まじめな顔をして、いつの間にか笑わせている。これが権太楼流。
恋い焦がれた師匠の存在
権太楼は1947年、東京・北区の滝野川に生まれた。大工の棟梁(とうりょう)のひとり娘と職人が駆け落ちして、滝野川に逃げてきたからだ。根っからの職人である父と、気風がよくて芸事好きな母、周りは長屋だらけと、江戸の落語の風景の中で育った。
明治学院大学に在学中は、学生落語界で大活躍。卒業後の'70年、当然のようにプロの道へ。寄席で聴いて大好きになった5代目柳家つばめに弟子入りし、柳家ほたるを名乗った。ところが、大好きだった師匠が4年後に亡くなり、その大師匠だった5代目柳家小さんの門下へ。小さんといえば、滑稽(こっけい)噺を得意として人柄のにじみ出る話しぶりと豊かな表情で人
権太楼は今もふたりの師匠をこよなく愛し、敬っており《お墓参りをするときは、つばめには相談を、小さんにはお礼と報告をする》と著書で記している。
権太楼が客の前でお辞儀をするとき、その手と指を置く位置や身のこなし方は、小さんに生き写しである。
「いつも思ってるんですよ。小さんになりたい、小さんになりたいって。73歳になってもそう思ってる。俺の夢だったの。だけど、とてもかなわない。だからせめてお辞儀だけでも……って」
小さんへの強烈な憧れと思いがある権太楼。最近では小さんが得意としていた噺を、よく高座にかけるようになった。
「うちの師匠の落語は奥が深いんです。よく“了見になれ”って言ってましたね。その言葉を発している人、そのものになれということ。しかも、師匠は落語を“目で語る”人だった。あたしはその域には、なかなか達することができません」
小さんは常に「芸は人なり」と言っていたという。これでもか、と笑わせる権太楼にまったく邪気や嫌みを感じないのは、権太楼が「そういう人だから」なのだろう。