高座に上がる柳家権太楼。客はみな“ワールド”にみるみるうちに引き込まれていく

 権太楼は若いころ、タレントとしても大活躍した。人懐っこくて機転が利くため、ラジオやテレビから引っ張りだこだった。だが、二つ目として『さん光』を名乗ったころから、タレントと噺家の狭間で行き詰まりを感じるように。そして '78年、「落語をやる!」と決めて一念発起し、二つ目の会などにも頻繁に出るようになる。それからは、ひたすら精進あるのみ。4年後には真打ちに昇進し、3代目権太楼を襲名した。

 滑稽噺に以前にも増してのめり込んでいったのには、きっかけがある。

「昔、『たちきり』という噺を上野(鈴本演芸場)でかけたんです。これは男女の悲恋物語。帰りがけ、お客さんが帰るのとタイミングが同じになってね、後ろからカップルが話しているのが聞こえるわけ。男の子が謝ってる。“ごめんね。権太楼ってさ、いつもはもっとおもしろいんだよ、笑わせてくれるんだよ”と。

 その言葉を聞いてハッとしたんですよ。お客があたしに求めているものを寄席では出すべきじゃないか、と。爆笑派だと言われているならそれでいくべきだろう。でも、人情噺もできますかと聞かれたときには“はい”と言えるように、稽古だけはしておこう、と

 権太楼は人情噺でも、笑わせる部分をきっちり描く。笑顔の裏に隠れた、ほろりと流れる一粒の涙のほうが号泣よりも悲しいことがあるように、その人情噺は心に沁みる。

背中からミシミシと音がして……

 40代から50代、権太楼は全速力で突っ走った。年間800席という、尋常でない数をこなす日々が続く。'01年、寄席で絶大な人気を誇っていた古今亭志ん朝が63歳という若さで亡くなり、翌年には師匠小さんも鬼籍に。権太楼世代が頑張るしかなかった。

「いつも客入りが気になっていましたね。それがストレスだったのかもしれない」

 奇しくも63歳のとき、権太楼は倒れる。金沢の落語会から帰って翌日は都内で仕事、さらに次の日、北海道で独演会を開いたときのことだった。

「噺の終わりかけに背中からミシミシって音がする。そのまま、なんとか噺を終えてお辞儀をしたけど立てないんですよ。ずるずると倒れ込んでいく。袖にいた弟子を呼んで“起こせ”と。でも、あのとき打ち上げには出たんですよ。確か1曲、歌ったんじゃないかな。せっかく労(ねぎら)いの場を用意してもらったから申し訳なくてね」

 満身創痍で東京に戻って検査を重ねた結果、告げられたのは腎臓がん。手術後、抗がん剤の治療をしているときに、今度は膀胱がんが見つかった。

「あのときが人生でもっとも心が落ちましたね。免疫力が落ちているから家にいないといけない。レコードでも聴こうかと石原裕次郎の『わが人生に悔いなし』を聞いたら、よけい落ち込んじゃってね。それでもやめられなくて何回も聴いて……。

 そんなとき、お医者さんが“楽しいことをしてください”と言うんだ。“落語でも聴いたら?”って(笑)。先生、あたしにそれを言う? あたしがいちばん楽しいのは、落語を“やること”なんだから」