「私は魚雷発射手でした。発射レバーを握り、合図を待ちます。顔のすぐ横を敵の砲弾がヒャーン、ヒャーンとうなりをあげていきました。海軍では命令がない限り、仲間が倒れても持ち場を離れてはいけない。交戦が終わってから撃たれた仲間のところに行くと、すでに息絶えていました。ウソでもいいから“いま行くぞ!”と言ってあげればよかった」
戦況は悪くなるばかりだった。味方の輸送船が沈められて魚雷が届かなくなり、潜水艦での輸送任務に切り替わった。
硫黄島の守備隊のことは今でも忘れられない。
「島に米軍が上陸する前のことです。夜間に海上で武器・弾薬や食料を守備隊に渡すんですが、受け取りにくる若い兵士はみな血色が悪く、明らかに何も食べていないんです。見かねた上官が“おまえら帰ったら食べられないだろうからここで食べていけ”とうながしても、“持って帰ります”と口をつけようとしない。ぜんぶ大事そうに箱に詰め、パンひとつ口にしませんでした」
硫黄島は玉砕し、戦争は終わった。
立ち向かわなくていい
戦地から帰還した鈴木さんは、両親と向き合って「私が弱かったから戦争に負けてしまいました」と頭を下げた。
「いいんだ、いいんだ」
と父親は答えた。
母親は、お風呂をわかすと、
「背中を流してあげる」
と入ってきた。急に背中に爪を立ててしがみつき、ワーッと泣きじゃくったという。
終戦後ずっと、戦争の話はしたくなかった。しかし、70代半ばのころ、平和祈念展示資料館(東京)から戦友会に『語り部』の依頼が来て引き受けることを決めた。戦地で命を落とした彼らのことを伝えたかった。
「諸外国に反感を買うようなことはよくよく慎むべきです。戦争というのは殺しですから。私は語り部活動で子どもたちに必ず言います。“もし戦争になったら逃げなさい。立ち向かわなくていい”って」
※2013年取材(初出:週刊女性2013年8月20・27日合併号)
◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)
〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する