で、その20年後くらいにもうひとつ、重要な雑誌が創刊する。それが、フランス人の画家・ジョルジュ・ビゴーが創刊した『トバエ』だ。名前の由来は江戸時代に流行(はや)った漫画の前身、「鳥羽絵」である。前回の記事で紹介した平安時代の鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は、なんとこの時代まで名前が使われている。通称「漫画の元祖」はダテじゃない。

 ビゴーはフランスで暮らしていたときに、いわゆるジャポニズムに興味を持って来日する。日本文化が大好きなおじさんで、サムライの格好で撮った肖像が存在するほど。

ジョルジュ・ビゴー

『トバエ』掲載作品のなかで有名なのは『魚釣り遊び』だろう。日本史の教科書なんかでしこたま見てきた作品である。ビゴーはジャーナリズム精神も強めで、最後のほうは日本政府から「さすがにわが国のこと、いじりすぎだわ」などと怒られながらも風刺画を描いていた。

『トバエ』1号に掲載されたジョルジュ・ビゴーの作品『魚釣り遊び』。魚(朝鮮)を釣ろうとする日本と中国(清)、それを横どりしようたくらむロシアの様子が描かれている

『ジャパン・パンチ』と『トバエ』によって「ポンチ絵」は大人気となり、1800年代終期から1900年代初期にかけて、国内では「風刺雑誌」がめちゃくちゃ盛り上がる。

『絵新聞日本地(にっぽんち)』や『團團珍聞(まるまるちんぶん)』『滑稽新聞』『東京パック』『上等ポンチ』『凸坊漫画』といった雑誌が次々に日本人によって創刊され、それぞれ「ユーモラスに政治・経済を斬っていく」というスタイルが人気になる。

 ここで重要なのは、「ポンチ絵」を皮切りに国内が「風刺を見たい」でなく「ポンチ絵を見たい」という雰囲気に変わったことだろう。新聞や雑誌に漫画が載るようになり、「風刺があるかどうか」ではなく「ユーモアがあるかどうか」に視点が移っていき、今にも通ずる「漫画文化」が一般的に認められていく。

一枚絵から、ストーリーのついた「漫画」へ

 さぁ、そんな明治時代が終わり、大正時代。1枚でバーンと風刺する「ポンチ絵」に、だんだんとストーリーがついてくる。

 まず、平安時代から「戯画」「嗚呼絵」「略画」「鳥羽絵」「狂画」「ポンチ絵」と、いろいろな名前だったのが、この時代からようやく「漫画」と呼ばれ始める

 実際には、江戸時代から「漫画」という言葉自体はあった。しかし、一般化したのはこの時代。普及にひと役買ったのが『時事新報』という日刊新聞である。そこで風刺画を描いていた今泉一瓢(いまいずみ・いっぴょう)が「英語のカートゥーンの和訳は『漫画』だ」とする。そして、彼の後を引き継いだ北澤楽天が「コミックの和訳は『漫画』だ」と言って使用し始めた。

 実際、大正初期の発行物を見ると「ポンチ」と「漫画」という言葉が並んでいたが、大正10年ごろには「ポンチ」を見なくなる。今ではみんな普通に「漫画」という言葉を使うが、呼称が定着したのは意外と、ここ100年くらいの話なのだ。