「新聞4コマ」から漫画の市民権を獲得した2作品
さぁ、この2人から今の漫画の土台である「ストーリーに沿ったコマ割り」「セリフの表現」「愛せるキャラクター」などが進化した。コマの中にセリフがあるなど、だいぶ今のスタイルに近づいてきた。
ただ、まだまだ今のように長編のストーリーを描いていたわけじゃない。例えば、北澤楽天の『丁野抜作』は3~6コマくらいの漫画だったように、大正期の漫画は多くても8コマくらいが上限だった。ようやく「1コマ漫画」から抜け出したが、短編の枠に収まっていたのである。
そんな漫画が飛躍するきっかけになったのが、私たちにもおなじみの「新聞4コマ漫画」だ。新聞の左上に漫画枠が掲載されるようになったのである。
まず、1923年に『東京朝日新聞』で、『正チャンの冒険』という作品が連載され始める。イギリスの『デイリー・ミラー紙』で連載されていた『ピップ・スクウィーク・アンド・ウィルフレッド』をモデルにした。
「少年とペンギンが冒険する漫画」をヒントに「少年とリスが冒険する漫画」を描くという、ちょっとグレーな試みだったが、タッチがめちゃめちゃ西洋絵本風で可愛らしい。この漫画は当時、社会現象になり、主人公の正チャンがかぶっている、大きなボンボンがついた毛糸の帽が子どもたちの間で大流行したほど。今でいうと『鬼滅の刃』の緑と黒の市松模様マスクをつけている子どもがたくさんいる、みたいな感じである。
『正チャンの冒険』は吹き出しだけでなく、コマの下にキャプション(説明文)をくっつけるのがスタイルになっていて、例えば「正チャンがリスをカバンに入れる絵」の下に「正チャンはリスをカバンに入れますよ」と文字で説明が入る。
「いや、言わなくてもわかってますから!」とツッコみたくなるが、このキャプションこそが「絵と吹き出しだけで伝わるかなぁ」という新聞4コマ黎明(れいめい)期の不安のあらわれなのではなかろうか。
また、ほぼ同時期に『報知新聞』の夕刊で連載をし始めたのが『ノンキナトウサン』だ。この作品も『親爺教育』というアメリカの漫画をモデルにしている。
『ノンキナトウサン』と『親爺教育』を見比べるとわかるが、ほぼ完全に描き方をまねているのが特徴で、キャプションがなくなり、ついに完全に吹き出しのみでストーリーが語られるようになる。また、横書きで「左から右」に読む方式を採用して「ンサウトナキンノ」から「ノンキナトウサン」となった。
『ノンキナトウサン』は1923年の11月から連載が始まったが、この時期は関東大震災の直後で、日本全国が混乱や悲しみに包まれていた時期だった。そこで、ノンキナトウサンという、どんな困難も楽しみながら乗り越えちゃう、『こち亀』の両津勘吉的なキャラは強烈に支持される。
ちょっとマヌケで可愛らしい中年男性を「ノントウ」と呼び、これが流行語になった。連載前は40万部だった報知新聞の発行部数は『ノンキナトウサン』の連載開始後、70万部まで伸びたそうだ。ストーリー漫画がいよいよ、世の中に対して大きな影響力を持ち出したのである。
さて、今回はコマ割り、吹き出し、キャラクターなどが確立されて、だんだんと今の漫画に近くなってきた明治大正期の漫画について紹介した。
セリフすらない「単純な線でユーモラスに描いた絵」を「漫画」と呼び、ようやく短いストーリーがある漫画ができたのが「たったの100年前」なのである。まだ数コマ単位での表現からは抜け出せていない。「ここから100年で、どうやって『呪術廻戦』や『東京卍リベンジャーズ』までたどり着くんだ……」という感じだ。それほどまでに戦後から令和にかけて、漫画表現はハンパないスピードで進化した。
では、次回はいよいよ手塚治虫の登場である。彼がなぜ「漫画の神様」と呼ばれるのか、そしてどのように漫画をアップデートしたのか、というところについて見ていこう。
(文/ジュウ・ショ)