毎日同じお弁当が6年間続いて

 父の料理にまつわるエピソードは尽きませんが、なかでも強烈なのはお弁当の思い出。わたしは中・高と6年間、給食のない学校に通っていました。父は朝早い仕事のとき以外は必ずお弁当を作ってくれたのですが、なんとこれが毎日同じメニュー!

 二段の重箱弁当で、一の重はのり弁。といっても、ごはんをよそってのりをのせるだけではなく、ごはん、のり、ごはん、のり、ごはん、のり、と決まって三層のミルフィーユ状態なんです。しかも、のりは小さく小さくハサミで切って重ねるのが父のこだわり。忙しい朝も、決して手間を惜しみませんでした。二の重は、ヒレ肉のステーキに卵焼きと焼きたらこ、そして彩りに紅ショウガ。このまったく同じお弁当が6年間続きました。

 お友達は「豪華でいいなぁ!」「おいしそう!」と口々に言ってくれましたが、いい加減わたしは飽き飽き。お友達のお弁当に入っている、かわいらしいレトルトのミートボールや、サンドイッチなんかがうらやましくて。そこで思いついたのが、お弁当のトレード。父のお弁当は大人気で、「来週は私の番よ!」なんて順番待ちができるほど(笑)。しまいには先生も巻き込んだりして、楽しかったなぁ。でも当時、父にはそのことを言えなくて、自分が食べたふりをしていたんです。大人になって父に打ち明けたときは「えぇっ……!」って、絶句していましたね。

6年間辰夫さんが作り続けた二段の愛情弁当を再現

 父のレシピのおかげで料理が楽しくなってきて、最近はぬか漬けにもハマっています。父はぬか漬けが大好きで、台所の床下に置いたぬか床を毎日かきまぜていました。わたしはもっぱら食べる専門でしたが、いざ自分で作ってみると、これがなかなか大変。父のこだわりどおり、冷蔵庫ではなく常温で漬けているので、管理が難しくて。この時期(※取材は10月)は急に寒くなったかと思えば暑さがぶりかえすなど気温の変動が激しいので、気が抜けません。東京の自宅と真鶴の実家を移動するときにも、ぬか床を抱えていたら「なんだかパパみたいね」と母に笑われてしまいました。

真鶴の家に母と住むことを決めました

 実は最近、生活に変化がありました。1年前のインタビューでは「父が亡くなったのを機会に、これから梅宮家の女たちは3人とも自立して、ひとり暮らしを始めます」とお伝えしました。

 いったんは実現したのですが、母が結局さみしさに耐えきれず、2か月もしないで私の部屋に引っ越してきてしまったんです。

 そんな紆余(うよ)曲折があり、しばらく都内で母とのふたり暮らしを続けてきました。でも、仕事のために都内の賃貸の家賃を払い続けながら、父が生前愛した真鶴の家も管理するのは金銭的にも大きな負担です。現実的に考えると、父には申し訳ないけれど、真鶴の家を手放すしかないと思ったんです。

 売却を考え、真鶴の家に内見のお客様をお迎えしたときのこと。父が多くの時間を過ごしたキッチンを案内していると、吊るしておいた父のフライパンだけ、いきなり大きな音を立てて床に落ちてきました。触れてもいないし、風も吹いていないのになぜ? とびっくりしていたら「もしかしたら、お父さんが怒ってるのかな」とお客様に言われてしまって……。同じタイミングで庭の木が突然腐ってしまい、安全のために撤去しなければならなくなりました。なんだか、本当に父が悲しんでいるような、私たちに「ここを守ってほしい」とメッセージを送っているような気持ちになったんです。

俳優としての活躍のほか、料理番組でも腕を振るっていた梅宮辰夫さん

 正直言って、若いときは真鶴の家が好きではありませんでした。思い返せば、父の漬物愛が高じて生まれた「辰っちゃん漬け」の成功にちなんで、「漬物御殿」なんて呼ばれていたことも(笑)。いまだって、仕事のたびに真鶴と都内を往復するのは不便です。でも、自宅の窓からビル群が見える暮らしより、海が見える暮らしのほうが、いまの私たちには合っているのかなと思えたんです。父の思い出を守りたい気持ちもあり、母とふたりで暮らしていた都内の賃貸を思い切って引き払い、真鶴の家に住むことを決めました。