46歳で料理研究家デビュー! 女性は何歳からでも輝ける
夫婦は3人の子どもに恵まれ、専業主婦として忙しくも幸せで充実した日々を送っていた。子どもたちには「勉強しなさい」と言ったことはない。自身も親から言われたことがなく、「今、生きることに一生懸命になりましょう」という姿勢を大切にしながら日々の暮らしを楽しんだ。その子どもたちもそれぞれに自分の好きなことを仕事にし、よき家庭人となったことで、「自分の子育ては間違っていなかった」と振り返った。
その後、登紀子さん自身に大きな転機が訪れる。料理研究家としての道だ。そもそも料理を教えるようになったのは、いわゆるママ友が遊びに来たときに出した料理を「おいしいから教えてちょうだい」と言われたことがきっかけだった。
自宅の台所で料理教室を始めたところ、生徒がどんどん増え、その評判はテレビ関係者にまで及ぶほどに。46歳にして料理研究家として本格的に料理番組に出演。NHK『きょうの料理』の講師など、その後40年以上の長きにわたり、“ばぁば”の愛称で人気を博した。
テレビや雑誌の仕事を多く引き受けるようになり、自宅で撮影をしたあとでも、夫が仕事から帰るまでにはきれいに片づくよう心がけていた。最愛の人が帰ってくるときには、夕食の支度をととのえて「お帰りなさい」と迎えてあげたいと思っていた。夫も、登紀子さんが楽しそうに料理の仕事をしていることを心よく思っており、雑誌の編集者などから「パパさん」と呼ばれ慕われていた。
「家族の理解とタイミングがあれば、女性の仕事は何歳からでも始められるはず。ライフスタイルがさまざまとなった世の中で、もちろん外で働くのもいいでしょう。でも、今は家族のために暮らしを大事にして機嫌よく過ごすという時間があってもいいのではないかしら。何事もムリせずあせらずに。“人生100年時代”ですから、誰もが自分の特技を生かして仕事をし、助け合う世の中になれば、すばらしいことです」
90歳を過ぎても活躍した登紀子さんのそんなメッセージは女性の先輩として胸に響く。
2009年、64年の年月を共に過ごした夫に先立たれ、独居生活を5年楽しんだのち、娘家族と同居。「九州、東北から通ってくださる生徒さんがいる。こんなありがたいことはないわ」と料理教室を定期開催、メディアに出るのも「お声がかかるうちはぜひ」と好奇心と行動力はとどまるところがなかった。
亡くなる数年前には健康保険証に、ある紙を挟んでいつも持ち歩いていた。「根曳きの松」の絵柄のメモ用紙に、「延命無用 チャーチャン」と書き記したもの。
娘や孫に「チャーチャン」と呼ばれていた登紀子さんの家族へのメッセージだ。自分の最期を思うとき、病院で意識もないままたくさんの管や器機につながれて生きるのではなく、自然にこの世とさよならして、あとは家族を見守っていたい。そう語っていたように静かに逝去。生前、夫と建てた駒込の光源寺の墓に眠り、まもなく一周忌を迎える。