──そこまでして入社されたのに、1年で仕事を辞めるのは未練がなかったですか?

「編集者になれると思って入社したのに、会社としてはオールマイティになんでもできる人材になってほしいという思いがあったみたいで、配属されたのは広告を管理する仕事でした。でも、ずっとエクセルをにらみっぱなしで日に日に心が死んでいったんです。フラストレーションがたまっていたとき、ちょうど会社の同期とウェブマガジンを立ち上げて、そこで書いた記事がバズリ始めたり、お寺で映画(注:寺主制作映画『DOPE寺』)を撮影していたらいろいろな人脈ができた。信頼していた友達から“稲田だったら一人でやっていけるよ”って言われて次の日に辞表を出しました」

──行動力がありますよね。

「その後は、近所の友人のワンルームに居候して。床で寝ていて、1日200円という契約で住まわせてもらっていました。友人に彼女ができて“そろそろ出ていってもらいたい”って言われて。半年間、出家ではなく“家出”と称してSNSで声をかけてくれた人の家に泊まり歩いていました

──会社員から、仕事を辞めて放浪。なにか目的があったりしましたか?

「憧れじゃないけれど、奥田民生が《さすらいもしないで このまま死なねえぞ》(『さすらい』)って歌っていたので。《このまま死なねえ》って、さすらいの先に何があんねんって思って。それが理由ですね

会社勤めがつらいのは、人間関係。僧侶の修行は助け合い

──子どものころから、仏教の勉強に触れていたのですか。

「正式にお坊さんになるためには修行をして資格を取らないといけなくて、僕は大学3年から修行に行き、大学院の修士課程1年の12月に終わりました。3年で100日くらいです」

──では、会社勤めと僧侶になる修行、どちらがつらかったでしょうか。

「仕事のつらさって、先輩からどう思われるとか、評価されたいとか、人間関係でしんどくなっている部分がある。僧侶の修行は、肉体的にしんどい。ペーパーテストや作法のテストはあるけど、どちらが上というような評価はされることがない。己の心とただただ向き合うんです」

──己の鍛錬なのですね。

「修行には、60、70歳でお坊さんになりたいという人もいて、彼らも同じ釜の飯を食う仲間。いろんな年齢層の人がいる免許合宿みたいなもので、毎日、膨大な量の知識を詰め込まれる。実は最初に“助け合え”と言われたんです。困っている人たちを置き去りにしたままでは、本当の修行にならない”と。僕の宗派では、“全員で救われよう”という性質が強いんです」

五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏という仏像への敬意からアフロ姿となった稲田さん

モーニング娘。で自我が覚醒。ブッダAIで大バズり

──子どものころから、これがやりたい! というような意思が強かったのですか。

いやいや。僕、ずっと自我がなかった。鏡を見るようになったのが高校生くらいだから、それまでずっと口も開いていたんですよ。僕、母乳を6歳まで飲んでいたんです。おじいちゃんたちも不思議がって“ほんまにおまえ、(お母さんの乳)出てる?”って聞いてきた記憶があります。僕は毎回“出てる”って答えていました」

──面白いご家庭ですよね。

「乳離れは、初めての自我の芽生えだっていう説があって、そう考えると僕は人よりも5年くらい遅いんですよ。高校くらいまでわからなかった。自分というものが」

──そこから、どうやって自分というモノに対峙(たいじ)できるようになったのでしょうか。

「小4で『ミュージックステーション』に出ていたモーニング娘。の加護ちゃんを見た瞬間に、“すごいのがいる!”って覚醒したんです」

──初恋みたいなものですかね。

「そうです。その日の晩に母に、“年齢差があっても結婚ってできるの?”って聞いたんです。母は“頑張ったら加護ちゃんと結婚できるかもしれないわね”って言っていました」