『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』を盛り上げるために
──秀樹さんはシングルだけでも87曲。ヒット曲が本当にたくさんあります。コンサートで歌う曲目はどうやって決めていましたか?
「毎年セットリストは変えていました。時代の流れを見ながら、最初に僕らマネージャーがたたき台を作るんです。今年は秋っぽいバラードから始めてアコースティックに行って最後にはガーンと盛り上げようとか。もしくはド頭からロックで行こうみたいな流れを決めて。
秀樹さんからも “この曲とこの曲は離したほうがいいな”とか意見が出てきて、その直感を生かして枠を組み合わせていきます。幸いオリジナル曲はたくさんあるので、その組み合わせたるや無限なんですよ」
──絶対にやると決まっている曲はあるんでしょうか?
「特にありません。『傷だらけのローラ』があるから今回は『ブルースカイ ブルー』ははずしておこうかとか。今年は『若き獅子たち』を聞いてもらおうとか、本当に無限ループのようにいろいろな組み合わせがあって、流れができると一気に決まりますね。
例えば『傷だらけのローラ』をフィーチャーしようと思ったら、まず『激しい恋』から盛り上げて『ブーメランストリート』と『炎』をやってから、ジャーン!(ローラのイントロ)とか。メインとなる曲を決めてその前をつくっていくんです。その流れをつくるための曲というのが、本当にいっぱいありましたから」
──『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』はどうですか?
「さすがに近年のコンサートでは『YOUNG MAN』だけは、どこかのポイントでガーンとやっています。『YOUNG MAN』をやるためにも、前の曲からどんどん盛り上げていくんですよ。例えば『俺たちの時代』をやって『ホップ・ステップ・ジャンプ』をやって、そこからの『YOUNG MAN』でお客さんは最高潮に達するんです」
2012年からスペシャルゲストとして出演した「同窓会コンサート」では、フィナーレで必ず『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』を歌って盛り上げた。あいざき進也、あべ静江、伊藤咲子、リリーズなど、年によって多少メンバーに変化はあったが、往年のアイドルたちが大集合。その中心に常に存在していたのが西城秀樹だった。
「同窓会コンサートは『YOUNG MAN』がないと成立しません。いちばん最後に出演者全員がステージに登場して『YOUNG MAN』をやって終わる、と。お客さんはみなさん、若いころに戻ったような感じでキラキラと目を輝かせてくれました」
日本全国各地をまわって年間70〜80公演にもおよぶステージは、秀樹のライフワークとなっていた。
『ちびまる子ちゃん』ありがとう!
熱心なファンには知られていることだが、実はその『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』ですら、一時期、歌われないことがあった。
1985年1月、日本武道館で開催したコンサートで、それまでに発表したシングル50曲すべてを歌い上げた秀樹は「これで歌い納め」と言わんばかりに、しばらく過去の曲を封印する。
「秀樹さんはヒット曲は “自分が残した財産だ”と常々言っていました。ただ、どちらかといえば過去に固執するタイプではないんです。アイドル時代のことにしても、こと細かには覚えていないと思いますよ。ドラマや映画にしても、撮影が終わったと思ったらすぐさま気分を切り替えて、次に進んでいく。
1985年以降は “あの曲はもういいよな……”という感じで『YOUNG MAN』も歌わず、当時の新曲とアルバムの曲を中心にやっていました」
そんな変化に一抹の寂しさを感じていた向きも多かったが、5年ほどで封印が解かれる。
きっかけは、あの『ちびまる子ちゃん』だった。
作品世界はなつかしい昭和(1974年ごろ)で、まる子のお姉ちゃん(さきこ)はヒデキの熱狂的ファンという設定。1990年からフジテレビ系でアニメ放送がスタートして大人気となり、翌1991年、秀樹がエンディングテーマ曲『走れ正直者』を歌うことになる。
「『走れ正直者』はあちらからオファーをいただきました。ちびまる子ちゃんのお姉ちゃん同様、さくらももこさんご自身が秀樹さんのファンだったと聞いています。それで作詞・さくらさんで、作曲・織田哲郎さん。おかげさまでヒットしましたね。
そして、CDシングルのカップリングには『HIDEKI Greatest Hits Mega-Mix』として往年のヒット曲を入れました。ビートに乗せて『激しい恋』『傷だらけのローラ』『情熱の嵐』『薔薇の鎖』など8曲をミックスでつないでいった。そこから一気にこだわりがなくなりました」
──こだわりですか?
「それまでは変なこだわりがあったんですね。“俺、歌わないぜ”みたいな。若いアイドルとは一線を画すというか、アイドルから脱皮しようというか。まだ30歳そこそこだったのに “下の世代とは違うんだ”みたいな意地もあった。
でも、やっぱりいい曲は時代を超えて愛されるし、みなさんが求めてくれるんですよね。ようやく気づいたのが35〜36歳のときですね」