星野源のひとり観
まず、私なりのイメージにすぎないが、星野源の歌詞には通底していると思う一つの哲学について言葉にしてみたい。存在そのものの捉え方についてだ。
誤解を恐れず言うなら、星野源の見ている人間のあり方は、どうしようもなく孤独なのである。
《どんな 近づいても
一つにはなれないから
少しだけ せめて
(途中略)
きつく 抱きしめても
二つしかなれないから
少しだけ 長く》
──星野源『肌』
《僕らずっと独りだと 諦め進もう》
──星野源『うちで踊ろう(大晦日ver.)』
私がいつも星野源の曲から感じるのは、〈私〉と〈あなた〉が等しく共有できるものが存在しない世界像だ。人は一つになれず、ひとりに一つ世界を持っている。たとえ同じものを見ていても、たとえ同じ言葉を使っていたとしても、他者と自分が完全に同じ気持ちになることはできない、そんなひとりの世界だ。
ここには「ひとりでいたほうが楽」とか「人はひとりで生きなければならない」といった自己啓発や生き方論を越えた、星野源なりの真理のようなものを感じる。
その証拠として、星野源の歌ではこうした「ひとりである」ことを、歌詞の中の〈私〉がわかっていたとしても、それでも一つになろうとすることが多いように思う。つまり、意思や欲望を越えたところに孤独があるのだ。
星野源の歌はむきだしの真理ではなく、真理とちっぽけな自分とのせめぎあいとして私たちの前に現れる。だからこそ、曲を聴く私たちの目に「3組の星野」の顔が映ることがあるのかもしれない。
同級生、あらため野生のブッダ
星野源のひとり観に触れた上で、この2つのフレーズについて思いを馳せてみたい。
《本物はあなた わたしは偽物》
《あの世界とこの世界 重なりあったところに たったひとつのものが あるんだ》
私はいつもこの歌詞を耳にするとき、まだ言葉になっていない何かが心のなかにあふれだす。「本物」「偽物」「たったひとつのもの」と大きな表現が用いられるけど、言葉が生き物としてうごめいていて、一つの意味では捉えきれない懐の深さがある。
今私が感じることを言葉にするならば、まずこの本物の「あなた」とは、1番と2番の歌詞のつながりから、重なりあったときの「あなた」として聴こえる。つまり「わたしの世界と重なったあなたの世界」である。また、「たったひとつのもの」も同じ現象を指しているように思える。
では、偽物の「わたし」とは一体何なのか。重なりあったときの「あなた」が本物なのであれば、この「偽物の私」は重なるという現象とは異なるものであると言えるかもしれない。
私が頭に思い描いているのは、その直前の文脈の「気が合う」と思い込んでいるわたしである。言い換えるなら、わたしが思う「あなたが思うわたし」。ややこしい。つまり、自分が勝手に想像した“他人が見る自分”のことだ。そうした自分が抱く自分の虚像を偽物なのだと言っているのではないだろうか。