これらをまとめると、次のような世界観が見えてくる。

「あなたのなかのわたしが本物であり、わたしが思うわたしは偽物である」

 よくある言い分として「他人にどう思われようがわたしはわたし」があるが、星野源の『ばらばら』はこうした言説とは違う地平を歩んでいるのが理解できる。わたしはあなたのなかにあるのだ。

 先述したように、「わたしはわたしの世界を生きている」が星野源の世界観だと考えられるが、同時に『ばらばら』では「わたしが思うわたし」といった究極的な自我の独立性も否定しているように思えるのだ。

 その世界観は、先述した「ひとり観」を突き詰めた結果生まれたものなのかもしれない。人の数だけ世界があるなら、わたしも相対する人の数だけ存在することにつながる。

 私が感じる『ばらばら』の源泉となっている世界観は以下のようなものである。

 世界はひとつじゃない。わたしはあなたそのものになれないし、あなたはわたしそのものにはなれない。わたしが思うあなたと、あなたが思うわたし、そのどちらも存在する。わたしが思うわたしだけがわたしではないし、あなたが思うあなただけがあなたではない。わたしはあなたによって初めてわたしになり、あなたはわたしによって初めてあなたになる。

 このように星野源の『ばらばら』は、この世のすべてのものが、互いに存在の根拠を共有しながら生存している関係性そのものを歌っているように私は感じているのだ。

 星野源の音楽は、『恋』における「夫婦」であったり、『不思議』における「愛」であったり、二人の間の出来事を歌うときに、関係性を表す既存の言葉に距離をとりながら表現していることが多い。それはこうした星野源の存在そのものの見方が起因しているように思う。

 この『ばらばら』の世界観に、私の数少ないボキャブラリーから何か一つ言葉を添えるなら、「無我」という仏教の言葉がピッタリと当てはまる。仏教では、この世のすべてのものは互いに影響し合いながら存在していて、たったひとりで独立して存在しているものはない(無我)と説く。

 さらにいえば、仏教でいう「世界」とはこの私たちが生きる一つの現実のことだけではなく、「ひとりの人間に、ひとつの世界がある」として説かれるのだ。

 一僧侶の目線から見れば『ばらばら』で描かれている世界観は、仏教の悟りの境地そのものなのだ。本当にびっくりしちゃうくらいに。だから、『ばらばら』を聴くたびにブッダみを感じ、星野源のことを「野生のブッダ」と言ってしまいたくなる私の気持ちをここにしたためたかったわけである。

 とはいえ、歌詞はいつだって「わからない」ものだと思う。ふとした瞬間にまったく別の景色が広がって見えることだって当然ある。

 歌詞に思いを馳せるというのは、答えを求めるような営みではなくて、自分自身の心の発露に近いのだと常々思う。ある歌人が「和歌を鑑賞することは、鑑賞者の心のなかで新しく和歌を創造することである」と言っていたのを思い出す。

 すなわち、それは私の言葉で言えば、禅問答。いや、むしろ今回に限っては源問答と言わせてもらいたいところだけど。歌詞に正解や一つの意味なんてないのだと思いながらこの連載を書いている。

《意味なんか ないさ暮らしがあるだけ》
──星野源 『恋』

 野生のブッダとの源問答はつづく。

(文/稲田ズイキ)

《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、広告代理店に入社するも1年で退職し、文筆家・編集者として独立する。アーティストたかくらかずきとの共同プロジェクト「浄土開発機構」など、煩悩をテーマに多様な企画を立ち上げる。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)