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数か月前の2022年1月29日、大沼さんは妻と小学校に通う2人の子どもをつれて、双葉町の自宅に泊まった。原発事故後、初めてのことだった。
全町民の避難から12年目となる今年の夏、双葉町ではようやく一部地域で避難指示が解除される予定だ。再び町で暮らすため、元の住民たちは「準備宿泊」ができるようになった。大沼さんの帰宅は、そのひとつだった。
家の中はすでにハウスクリーニングを頼んで片づけてしまっていた。事故前の荷物は何もない。段ボール箱を組み合わせて簡易的なテーブルを作った。見栄えをよくするため、段ボールに模造紙を貼りつけて、こう書いた。
〈2022年1月29日 RESTART〉
しかし、テーブルに書いた〈RESTART〉は、「双葉でもう一度暮らす」という意味ではない。「故郷と自分がつながっているための営みを、またひとつ始める」という意味だ。
故郷は恋しい、しかし──。消えない悩み
この数年間、大沼さんは取材などで聞かれ続けた。
──もし双葉町の避難指示が解除されたら、大沼さんは帰りますか?
「それは難しい」というのが、いつもの答えだった。
電気や水道などのインフラが整ったとしても、町内にはまだ学校がない。避難指示が解除されるのは町のごく一部にすぎず、子どもが遊べる場所も限られている。もちろん、廃炉作業中の福島第一原発や、放射性廃棄物がたまる中間貯蔵施設が近くにあるのも心配だ。
大沼さん自身のことを言えば、避難してから十年以上がたっても、故郷への思いが消えることはない。それどころか、つのる一方である。
原発事故で避難してから、大沼さんは月1回くらいのペースで双葉町に帰っている。一時帰宅はすでに100回以上になる。故郷に帰るたび、子どものころの記憶がよみがえる。川でコイやフナを釣ったこと、ソフトボール大会に出たこと、食堂で食べた味噌ラーメンの味……。それらの記憶は双葉の地を踏むことで脳裏によみがえってくる。
「故郷への思いはありますよ。しかし、それを子どもに押しつけることはできません」
大沼さんは悩んだ末、再び町で暮らすことはできないけれど、町との縁を切らない道を選ぶことにした。町内には自宅があり、「エクセレント・ユーティー」も含めて2棟のアパートを所有している。これらの建物を解体せず、維持・管理する。自宅は墓参りのときなどに家族が泊まる場所として使う。アパートは、希望者がいれば入居してもらいたい。
「解体してもらったほうが楽だ、という声もあります。建物を維持するだけでお金もかかりますから。でも、ここを更地にして草がぼうぼうになったら、もう私は双葉に来る理由がなくなってしまうんですよね。ここに自分の家があり、アパートがあることで、町に通う理由ができます。除染しようとか、入居者を増やすためにリフォームしようとか。もう双葉に来なくていい、というふうになるのが、いちばん悲しいんです」
原発PRの標語を考えた責任も感じている。
「原発では『明るい未来』はこなかった。『破滅の未来』しかなかった。自分の標語を訂正したい気持ちが強くあります」
看板があったころは、その前に立ってプラカードをかかげ、標語の訂正を行ったこともあった。しかし、本当の「訂正」とは何かを考えれば、「原発なしの明るい未来をつくる」ことではないか?
原発の廃炉は、少なくともあと数十年つづく。手ごろな賃貸物件があれば、作業に携わる人の住まいにできる。そうした形で双葉町の「明るい未来」づくりに関わることを、大沼さんは目指している。
復興庁などによる住民アンケートに対して、「双葉に戻りたいと考えている」と回答した人は11.3%、「戻らないと決めている」と答えた人は60.5%。事故前に双葉町に住んでいた人はみな、大沼さんのように悩みつつ、それぞれの事情で故郷との付き合い方を考えているのだろうと思う。