ウクライナの人々は「自分たち以上に不安だろう」
4月6日、双葉に帰った大沼さんは、自宅の窓に黄色と青色の布を貼った。ウクライナの国旗だ。窓にメッセージを貼りつけた。
〈ウクライナも双葉町も故郷へ無事に帰れますように〉
大沼さんはチェルノブイリ原発事故があったウクライナに対して、以前からずっと特別な思いを抱いていた。原発PR看板の写真が、首都キーウの博物館に展示されたこともあった。
今年3月、ロシアのウクライナ侵攻が始まって以来ずっと気にかけていたが、その思いがさらに強まったのは今年3月、「愛知県がウクライナからの避難者を受け入れる」
「当時のことが一気によみがえりました。私はまず、同じ福島県内の会津若松市に避難しました。会津若松はまだ雪が残っていて、寒かったんです。しかし、3月の末に愛知へ行くと、ぽかぽかして桜が咲きそうな陽気でした。同じ日本でも全然違う、縁もゆかりもない場所に来てしまったと、とても心配になりました」
当時、妻のせりなさんは妊娠7か月だった。大沼さんは続ける。
「安心して出産してほしいと考えて、福島第一原発から遠い愛知まで来たけど、テレビもない、洗濯機もない、冷蔵庫もない。数日分の着替えしかありませんでした。土地勘のない場所でこれからどう生きていくか、本当に不安でした」
当時の苦労を思い出すと、ウクライナを着のみ着のまま逃れてきた人々のことは大沼さんにとって、ひとごとではなかった。
「きっと、いろいろな不安の中、ただ無心で、戦地から逃れてきたのだと思います。言葉が通じない国への避難は当然、私よりも不安なことが多いでしょう」
自分に何かできないかと思って考えたのが、双葉の自宅からメッセージを送ることだった。
「双葉町の人もウクライナの人も、故郷を奪われた気持ちは一緒だと思うんです」
誰もが故郷で暮らせる日が来ることを思い描いて、大沼さんはささやかなメッセージを送り続ける。
(取材・文/牧内昇平)