週末レスラーとして大ケガを負い、覚悟が決まった
──大学卒業後は、就職などされたのですか?
「僕、バイトとかもしたことがなかったんです。学生の頃から広告代理店と仲良くなって、スポンサーを集めてもらって企画をして集客する。ヤングマーケットのセールスマーケティングの手伝いみたいなことをやっていました。今でいう、ベンチャーの走りですね。食べていくのは困っていなかったんです」
──そこからどうやってレスラーデビューされたのですか?
「テレビの仕事をした時に、『屋台村プロレス』のリングアナをやっているっていう芸人さんと知り合ったんです。屋台村プロレスの知名度がないから、雑誌で取り上げてほしいと言われました。彼らは居酒屋が集まった場所に、リングを置いてプロレスを見せていた。その練習を見ているうちに、“これ、俺でもできるかもしれないな”って思ったんです」
──レスラーとしてリングデビューされたのは何歳でしたか?
「24歳です。その当時、UWFに影響されてサンボも習っていたので、やれるかもって思いました。屋台村プロレスって、週末しか試合をしてなかった。これなら自分のライフスタイルにもぴったり合うなっていうのもありました」
──予想しない形でのレスラーデビューだったのでね。
「最初はプロレスラーって名乗れればいいっていう感じでした。でも新東京プロレスっていう石川孝志さん(全日本プロレスなどで活躍した元レスラー)の団体に参戦した時に、受け身を失敗して、足から落ちて骨折して。選手を乗せていた帰りのバスの中で、“あいつ受け身もできないからしょっぱい”って聞こえてきたんです」
──今の姿からは想像がつかないですね。
「そこから、本腰を入れてやろうって思ったんです。ケガをしたことによって“やめられなくなっちゃったな”って覚悟が決まったんです。そこから、意識を変えて身体もでかくして、練習をちゃんとするようになりました」
──レスラーとして生きていく決心がついたのですね。
「この環境でやっていたらだめだって思って、PWC(1993年設立のインディー団体)っていう高野拳磁さんがやっていた団体に入団したんです。その時は、NOSAWA論外(現フリー)と、MIKAMI(現フリー)と、3人でやっていました。ある時、お客さんが全然入らなかった興行があって、バックステージで高野さんが怒っちゃったんです。“解散だっ!”って言って。マジで解散しちゃったんですよ」
──せっかくレスラーとしての場所を見つけたのに、落ち込みませんでしたか?
「“まっ、いっか”って思いましたね。そうしたらNOSAWAが僕のところに来て“こんなんでいいんですか”って言ってきた。僕は“いいんじゃない”って言ったんですが(笑)。プロレスをやっていてもお金が入ってくるわけではないし……。そうしたら、NOSAWAから“団体を作りませんか”って言われたんですよ」
──そこがDDTのスタートだったのですね。
「最初は嫌だったんですよ。NOSAWAの熱意に押されて始めたのがDDTでしたね。立ち上げてからしばらくは、資金が足りなくなったり、厳しいって思えることが何度かあった。経営の部分は別の方にやってもらっていたんだけれど、そのまま面倒みてもらうのも違うなって思ってきて。そこで、起業してDDTを会社登記して僕が社長になるしかないなって決めました」
発想を変えてクラブでプロレス。女子高生が見に来て話題に
──もともとは団体を作ることに積極的ではなかったのに、自分から経営を行おうと思ったきっかけはありましたか?
「きっかけは、当時おつきあいしていた相手の存在が大きいです。結婚したんですけれど、“プロレスラーとして、どうやって生活すればいいんだろう”ってところがスタートでした。もうやるしかないなって」
──高木さんが社長になられてから、団体の経営はうまくいきましたか?
「順風満帆にうまくいったというか、軌道には乗りました。普通にやっていたら無理だったんですよ。巨体のレスラーと比べると、そこまで大きくはない選手たちだったので、注目を集めるのは難しかった。そこで発想を変えて、渋谷の『club ATOM』というクラブを借りて、そこでプロレスをしたんです」
──クラブでプロレスですか!?
「そうです。当時はギャルブームだったんですよね。ギャルが見に来るプロレス団体って評判になったんです。それが『トゥナイト』(テレビ朝日系で1980~1994年まで放送されていた深夜の情報番組)に取り上げられたんです」
──確かに、女子高生がプロレスを見に来ていたら、目立ちますね。
「ただ、2008年に起きたリーマンショックの影響で、一気に集客が落ちたんです。これは起死回生しなければだめだって思って、2009年に両国国技館でビッグマッチ(8月23日『両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜』)を行ったんです」
──興行は成功されましたか?
「札止めになるくらいのお客さんが見に来てくれたんです。それが成功して、業界的にもちゃんとした団体として認知され、専門媒体にもどんどん取材されるようになった。プロレス団体として、ビッグマッチを行うことで世間にも認知が広がる。そこが大事だったんだって気づきました」