「僕、女ゴコロがわかってますかね? まったくわかっていないと思いますけど」
笑いながらそう語るのは、二村ヒトシさん(57)。『すべてはモテるためである』『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』など、男女の恋愛にまつわる著書を多数、執筆しています。またそれ以外に、二村さんにはAV監督という一面もあります。物腰柔らかな口調で話す姿からは、Netflixで放送されたドラマ『全裸監督』の主人公を彷彿(ほうふつ)とさせるような、“強め”のAV監督とは結びつきません。
慶應義塾幼稚舎から慶應義塾大学まで進学するという経歴を持ちながら、AV業界に飛び込み男優としてデビュー。そこから監督に転身し、数々のヒット作を手がけた二村さん。「母親が嫌がりそうなことをしようと思ったら、AV男優になっていた」と語る二村さんに、ユニークな半生をお聞きしました。
女性陣ばかりに溺愛されて育った子ども時代
──当時の慶應幼稚舎には、政財界の子息などが通っていたイメージがありますが、二村さんはどのようなご家庭で育ったのですか?
「父親も慶應卒で大新聞社のまあまあ偉い人だったんですけれど、僕が3歳のころに離婚しているんです。母親は医者で、六本木で皮膚科と泌尿器科のクリニックを開いていました。場所柄、有名な芸能人などもお忍びで性病を治しに診察に来ていました」
──家の中では、お母さんとふたり暮らし、という感じでしたか?
「いえ、母が家のことを一切やらないので、家事などをしてくれるお手伝いさんが住みこんでいました。家には女性の看護師さんもいて、僕は家の中にいるすべての女性から溺愛されて(笑)」
──すべての女性からですか!?
「まあ、みなさん母に気を遣っていたんでしょうが、とにかく女性しかいない世界で甘やかされて、“男はどうふるまうべきか”っていう見本がないまま育ってしまった。それでこんな人間になってしまいました……」
──お母さまは、どのような人でしたか?
「母は家の中で王様でしたね。女王様じゃないんですよ、王様。僕は昭和39年生まれだから当時、女性の社会進出は今ほど盛んではなかった。そんな時代に、母は女手ひとつでクリニックを繁盛させていた。経済力のある働くシングルマザーに育てられたのは、自分にとってはとてもよかったと思う。一般的な家庭と環境が違いすぎたからか、道徳観念はおかしくなりましたけど(笑)」
──慶應に入られたのは、医者になるためだったんですか?
「“慶應に幼稚舎から入学させておけば、勉強しなくても内部進学で順当に医者になれるだろう”って母親は思っていたんです。でも、僕は見事にドロップアウトしたわけですよ。母の予想をはるかに上回って勉強しなかったんで医学部には入れず、文学部に進学しました」
──医学部に進学できないとわかったときに、お母さまからは怒られたりしなかったのですか?
「怒らなかったですね。“犯罪さえしなければいい”って言われてたから、それだけはしなかったものの、“どうやって母親を嫌がらせてやろうか”と心のどこかで思っていたんでしょうね(笑)」
“勉強しないオタク”から、“文科系モテ男”に
──中高時代は、どのような学生でしたか?
「周りでは高校3年で車を乗り回しているような奴が学内ヒエラルキーの上位に立つわけですが、僕は勉強しないうえに、オタク気質でした。スクールカーストの下のほう(笑)」
──具体的には、何に夢中になっていましたか?
「現代のオタクとは状況が違うけれど、漫画やアニメが好きでしたね。高校からは、勉強を放棄して演劇をやっていました」
──学生のころからモテましたか?
「同じように慶應に通っていた同級生は、高校のときから私立の女子校生と遊んだりしていたけれど、僕は高校時代は、女子生徒と接点がなかったんです。でも大学に進んだら、“エロいことに興味のある文科系女子”にだんだんモテ始めました」
──それまでに蓄えていた知識が、実を結んだのですね。
「とにかく本ばかり読んでいたので、同年代の男が知らないようなエロ知識が子どものころから蓄積されていて、それが女の子たちにウケたんだと思います。小さいころから僕はずっと性に対する探究心がありました(笑)」
──学生生活を謳歌(おうか)されながらも、二村さんは大学を中退されていますが、そのときにも、お母さまからは反対されませんでしたか?
「母は仕事しかしていなかったから、僕に対して罪悪感があったんでしょう。だから諦めていたみたいでしたね。大学は1回落第して5年通って、あと1年行けば卒業できたけれど、“もう行かない”って勝手に中退したんです。主宰していた『パノラマ歓喜団』という劇団の公演をやりながら、“大学を辞めたら学生ではなくなるから、働かなきゃいけないんだろうな”って漠然と悩んでいました」