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生き方

「ロリータファッション界のカリスマ」青木美沙子さんが看護師とモデル、二足のわらじを履き続けるワケ

SNSでの感想
青木美沙子さん。凛とした瞳と柔和な笑みが印象的でした 撮影:吉岡竜紀
目次
  • おしゃれ好きの看護学生から、雑誌の読者モデルに
  • 表紙モデルでもギャラは1万円。看護師になることを決意
  • ハードな医療現場と華やかなモデル業界とのギャップ
  • 自宅の衣裳部屋には500着。総額1000万円以上!
  • 年齢を公表した理由は?「自分らしく生きる」ということ

 2004年に公開された嶽本野ばら原作の映画『下妻物語』をきっかけに、幅広い層にも知られるようになったロリータファッション。ロリータモデルの中でカリスマ的人気を誇るのが、青木美沙子さんです。Twitterで9万人近いフォロワーを持ち、ファッションブランドとのコラボ商品を数多くプロデュースしています。

 美沙子さんは、モデルという側面だけではなく正看護師の資格を持ち、看護師としても働いています。二足のわらじを履く美沙子さんに、ロリータファッションにハマったきっかけや、モデルをやりながら看護師を続けている理由をお聞きしました。

流し目もとってもセクシー。ブラウン系のアイシャドウがお洋服とベストマッチ 撮影:吉岡竜紀

おしゃれ好きの看護学生から、雑誌の読者モデルに

──今日のお洋服も細部まで繊細で可愛らしいファッションですよね。ロリータファッションを着始めたきっかけは何でしたか?

「高校生のときにスカウトされたのがきっかけです。『KERA(ケラ!)』(ジェイ・インターナショナル刊。1998年創刊、2017年休刊)という雑誌が好きだったのですが、原宿を歩いていたら、たまたま『KERA』のスタッフの方に声をかけてもらったんです

──普通に歩いているだけでは、なかなか声はかけてもらえないと思いますが……。

「おしゃれはしていきました(笑)。“もしかしたら、声をかけてもらえるかもしれない”って期待しながら歩いていましたね。当時はまだSNSがなかったので、雑誌のストリートスナップに載るのがインフルエンサーになる近道だったんです。それくらい読者モデルは憧れの存在でした

──当時からロリータファッションに身を包んでいたのですか?

「いえ。ロリータファッションはお金がかかるんですよ。何か一着だけですむものではなくて、頭のさきから靴までそろえると、1つのコーディネートで10万円近くかかる。高校生の私には買えなかったんです」

──『KERA』のなかでは、青木さんはどのようなファッションを着ていたのですか?

「当時『KERA』に載っていたのは突飛なファッションで、顔中ピアスでいっぱいだったり、パンク系だったり……。普通に歩いていたら、二度見されるような人が出ている雑誌でした(笑)。その中で、私はロリータモデルという位置づけでした。だからプライベートでの購入は難しかったけれど、お仕事ではロリータファッションを身につけられるようになりました

──初めてロリータファッションを着たとき、どう感じました?

「私がロリータファッションを着るようになったのは17歳のとき。大人になっても、“お姫様になりたい願望”って、きっと誰しもあると思うんです。私はロリータ系の洋服を着ることで、お姫様になれる高揚感を感じてしまった。そこでハマってしまいましたね」

ただずまいの美しさからも、モデルの経験が長いことが伝わってきた 撮影:吉岡竜紀

表紙モデルでもギャラは1万円。看護師になることを決意

──普段から身に着けるものも、ロリータ系になっていったのですか?

「高校生には全身ロリータファンションはハードルが高かったので、基本はお仕事のときだけ着ていました。上から下まで集めるようになったのは、看護師になってからです。でも、普段もちょっとだけリボンのついたカーディガンを着るとか、バッグだけロリータ風のものに替えるようにしていました。ロリータファッションで生活をしていこうとは思っていなかったのですが、ただただ好きで、少しずつ買いそろえていました

──モデルの仕事をやりながら、看護師の資格を取られたのですか?

「高校で、看護師の勉強ができる看護科に通っていたんです。高校卒業の資格と准看護師の受験資格が取れるので、そこで准看護師資格を取りました。そのあと、2年制の短大に進学して、正看護師の資格も取りました

──看護師はいつごろから志していたのですか?

もともと『ナースのお仕事』や『ER』というような、医療を扱った作品が好きだったのです。テレビドラマを観て、“自立した女性ってかっこいいな”って思っていました。でも当時の自分には得意なものはなかったので、高校にあがるときに、“将来は資格をとって、何か技術を身につけよう”と思ったんです」

──モデルだけでやっていこうとは考えなかったのですか?

「モデルの一本でやっていくという道も頭をよぎったのですが、この時代の人たちの多くは、私も含めモデルが趣味のひとつというか……。“学生のときの思い出作り”みたいな感じで、それで食べていこうとはしていなかったと思いますね。『KERA』の表紙に登場しても、ギャラが1万円だったんです。“これでは生活できないな”って感じていました

──モデル業もシビアな世界なのですね。ご両親からもモデルの仕事を反対されたりはしましたか?

「一度、20歳くらいのころに、“モデルが楽しいから看護師になるのを辞めたい”って親に相談したんです。父は“とりあえず資格だけは取っておきなさい。そうすれば好きなことができる。好きなことするには、筋の通った仕事をひとつ持ちなさい”って言ってくれた。両親は、モデル業界は浮き沈みが激しいということを、わかっていたんだと思います。資格を取ってからは、特に何も言われないですね」

髪の毛はご自身で巻いているそう。赤茶系の髪色ときれいにカールした毛先、まるでお姫様のようでした 撮影:吉岡竜紀
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