慶應義塾大学をドロップアウトしてAV男優の道へ
──では、AV業界に入るきっかけは何でしたか?
「簡単にいうと、“セックスをしてお金をもらおう”って思ったので。“オレにはそういう資格があるに違いない”みたいな。バカでしたね……(笑)」
──AV男優を始めてみて、理想と現実のギャップなどはありましたか?
「一流のAV男優として生き残れる人たちっていうのは、まあ超人なんです。僕は男優をやってみたけれど、あまり使い物にならなかった」
──なぜその時点で辞めずに、業界にとどまろうと思ったのでしょうか。
「AVに関してだけは結果が出るまで辞めたくなかった。“オレがエロいと思うものは絶対に世間に認められるはずだ。そうでないとおかしい”と思っていたんですかね。いま考えると、なぜそんな自信があったのかよくわからないですが……」
月に10本はAVを制作した過酷な日々を経て
──AV関連の仕事の中で、嫌だったことはありましたか?
「エロ業界に必ずいる怖い人たち、あとホモソーシャルな連中と付き合わなきゃいけないのは、めちゃめちゃ嫌でした(笑)。なにしろ根がオタクなもので」
──二村さんは、女性が能動的に性を楽しむ『痴女』というジャンルや、女性がフェイクのペニスを装着する『ふたなり』という新しいジャンルを開拓されています。アダルト業界において珍しいことを生み出す発想力は、どのようにして培われたのでしょうか。
「僕は監督として、運がよかったんだと思います。『DMM』は男性向けアダルト市場で得た資金をもとに大きな企業体になっていったわけですが(※現在はアダルトの配信や通販の部門は『FANZA』と改称)、彼らが市場に参入して東京にきた初期に、“とにかくソフトの本数が必要だから、中身はなんでもいいからたくさん作りたい”ってことで(笑)。当時は月に10タイトルくらいの撮影現場で演出と、出演もしてました。そういう監督は僕のほかにもたくさんいた」
──月に10本も制作しなければならないと、毎日のように撮影されていたのではないですか?
「でも今の若いAV監督さんの中には、当時の僕らが作ってた適当な商品とは比べられない高いクオリティで、同じぐらいの本数を撮ってる人もおられます。2000年に『ソフト・オン・デマンド』(※リアリティ番組『マネーの虎』に出ていた高橋がなりが創業した大手アダルトコンテンツメーカー。以下、デマンド)に連れていかれて、デマンドやデマンド傘下の会社で撮るようになって、やっと自分でも“作品”と言っていいレベルのものを作れるようになったんです」
──当時の生活はどのような感じでしたか?
「もう結婚もしていて'99年に子どもが生まれていましたが、忙しくて家には帰れない感じでした。そのころから2007年くらいまでかな、僕の撮ったAVはおかげさまで、めちゃくちゃ売れたんですよ。“自分が日本のAVを代表している”くらいの気持ちでいました(笑)」
──具体的には、二村さんのAVはほかの作品とどう違ったのでしょうか?
「僕は“女性が強いAV”を確立させたんだと思ってます。『痴女』ってジャンルのフォーマットを作ったら、それが当たりました。今40代くらいの男性だったら、僕の名前は知らなくても、僕の撮った作品は必ず観てくれていると思います」