メイドカフェの源流は「恋愛シミュレーションゲーム」と「ファミレス」
──その後、中高と進んでいくわけですが、そのころは何か熱中していたことはありましたか?
「中学生のころに恋愛シミュレーションゲームにハマってましたね。当時、はやっていたっていうこともあるんですが、中学が男子校だったので、思春期だというのに校内でのロマンスは起こらなかったんですよ(笑)。だから代わりにゲーム内で女の子を攻略していました」
──中学生のころはネット民たちとの交流は続いていたんですか?
「はい。『センチメンタルグラフティ』というゲーム(※)のインターネット交流所にいました。ここで先輩方に“メイド”を教えてもらいましたね」
(※ゲーム内で美少女キャラクターとの恋愛を楽しむシミュレーションゲーム)
──お、ここでメイドが登場するんですね。でも「メイドカフェ」が誕生するより、かなり前ですよね?
「そうですね。1990年代末です。そのころ“可愛いメイドさんが出てくる恋愛シミュレーションゲーム”がちょっとしたブームで、先輩たちに教えてもらったんですよ。これが最初にメイドという存在に出会ったタイミングでした。
あと、もうひとつ教えてもらったことがあって。それが“ファミレス”です」
──え、ファミレス……ですか?
「高校生のとき、“制服が可愛いファミレス”が近くにいくつかあって。『アンナミラーズ』とか『ブロンズパロット』とか……。そこに通って店員さんを眺めていました」
──えぇ~、めっちゃ面白いです。これ、まさにメイドカフェの源流というか……。ゲーム内でメイドさんに憧れても、リアルにはいない。それで“制服が可愛いファミレス”が代替品になったわけですね。
「そう。アレですよ。僕は当時コーヒーが飲めなかったんですけど、アンナミラーズはコーヒーだけお代わり自由だったんです。高校生なんで、お金ないじゃないですか……」
──(笑)。苦手なコーヒーで無理やり粘っていたんですね。
「そう。アンナミラーズはけっこう早いタイミングで店舗を縮小しちゃって。僕らのせいじゃないかって。さすがに冗談ですけど(笑)。
そんな時期にコンカフェ史として重要な出来事があって、1997年に『Piaキャロットへようこそ!!2』っていうゲームが出たんですよね。ファミレスを舞台に、主人公と幼なじみの女の子との恋愛を描いた作品なんですけど。これが人気になって、1998年の東京キャラクターショーで、キャラクターコンテンツ業者の株式会社ブロッコリーが、作中のファミレスとコスチュームを再現した模擬店舗を作ったんです。
それが好評で1999年、秋葉原に『Piaキャロレストラン』っていう店舗ができたんですよ。今の『ガチャポン会館』があるところですね。期間限定でしたけど、この店舗がメイドカフェ・コンカフェのスタート地点だといえます。
私も当時、高校生ながら通っていました。『Piaキャロットへようこそ!!』の世界観が、もうそのまんまリアルに反映されていて、“すげぇ可愛いなぁ”って」
──知らなかった。コンカフェの源流は恋愛シミュレーションゲームにあったんですね。
「もとをたどればそうですね。で、ブロッコリーは『Piaキャロレストラン』のあとに『Cafe de COSPA(カフェ・ド・コスパ)』っていうコスプレ喫茶を出すんですけど、これが1年くらいで潰れちゃうんですよ」
──あらま。意外でした。てっきり波に乗っていくのかと。
「今だから分かるんですけど、いろいろ問題があったんです。今みたいに“1時間〇〇円”みたいな仕組みじゃなかったから、ドリンク1杯でずーっといられたんですよ(笑)。それと、ぶっちゃけコンセプトもブレていたので、リピーターを獲得しにくかったと思います。これを言っちゃうと、叩かれるかもしれないですけど(笑)」
──黎明期ならではの苦労というか……。
「そうですね。この流れで2001年に初のメイドカフェ『Cure Maid Cafe(キュアメイドカフェ)』ができて、このときに混雑時時間制のシステムができた。そのあとにメイド居酒屋としても楽しめる『ひよこ家』とか、『電車男』にも登場した『ぴなふぉあ』といったメイド喫茶が増えていくんですよね」
──なるほど~。すごくエキサイティングな時期の秋葉原を体験していらっしゃったんですね。
「僕がコンカフェ研究家として胸を張って言えるのは“Piaキャロレストラン時代から常連だった”ということ(笑)。高校生の多感な時期と、メイドカフェの黎明期が重なったのは“コンカフェ研究家”になるうえで大きかったと思いますね」