2022年8月8日(世界猫の日)、日本のインディー・ロック・バンド、Pervenche(ペルヴァンシュ)が20年越しとなるセカンド・アルバム『quite small happiness』(KiliKiliVilla)をリリースした。結成は1995年、静かで淡々とした揺らぎをたたえたサウンドでファースト・アルバム『subtle song』(2001年、Clover Records)は当時も少なからず話題を呼んだ。
この20年、解散や休止を公言していたわけではない。このセカンド・アルバムで、なにかを大きく変化させたわけでもない。ただ、自分たちが好きなものを好きだとちゃんと言えるだけの自信を、バンド以外の生活や仕事も含めて培ってきたことは影響しているように感じる。とりわけボーカルの長井雅子さんは、この数年でグラフィック・デザイナーとしてのセンスと能力を大いに発揮し、近年は自身の猫好きとも強くリンクする動物写真家・岩合光昭さんの写真集や連載ページ・デザインなども含め、その幅を大きく広げている。
今回のインタビューでは、Pervencheとしての活動や新作に至る経緯から、猫への愛が切り開いたデザイナーとしての現在まで、「好き」と「仕事」を自然と両立させている彼女に話を聞いた。
「まだ私たちみたいな音楽の火は消えきってはいなかったんだな」という喜び
──Pervencheというバンド名の由来は?
結成当初の1990年代はPeatmoss(ピートモス)という名前で活動していたんです。それがアメリカに同じ名前のコワモテなバンドがいるということで改名することになりました。ピートモスって植木で土の代わりになる腐葉土などを使った特殊な素材の名前で、私がバンドのメンバーと一緒にやっていたレーベルもClover Recordsで、どちらも植物に関係があったんです。それで、新しいバンド名にも植物で「p」がつく名前を探してたら、デザインでよく使う色チップに、フランスの伝統色でブルー系の「pervenche」という名前の色があったんです。日本では「ツルニチニチソウ」という植物です。
──ファーストからセカンドまで、長いスパンが空いたのはどうしてですか?
けんかとかしたわけではないんです。90年代のインディーズ・ブームが収まって、CDが売れなくなってきた時期があったじゃないですか。特に洋楽が元気がなくなっちゃって、私たちの活動もだんだんなくなっていったし、友達のレコード屋さんも閉店してしまったりした。私たちはバンドの周囲も含めて洋楽が好きな人たちの集まりだったので、なんとなく自然に活動しなくなった感じです。
でも最近、平成生まれでバンドをやってるような若い人たちに、私たちが声をかけてもらえるようになってきたんです。「え? (対バンが)私たちでいいの?」みたいな感じ。私たちが昔、聴いていたような音楽が新たに聴かれるようになってきてるらしいんですよ。
──よく引き合いに出されるヤング・マーブル・ジャイアンツ(1980年にデビューしたイギリスの3人組で、ポストパンクとネオアコースティック両方のシーンに影響を与えた)も、今またすごく聴かれてますからね。
今の子たちって時代とか関係なく聴いて好きになるじゃないですか。面白いですよね。そんな子たちが発見してくれて、「まだ私たちみたいな音楽の火は消えきってはいなかったんだな」という喜びがありました。そういうことの後押しもあって活動を再開しているという感じなんです。
休止中も、数年に1回くらいのペースで昔からの音楽仲間が集まれる音楽のイベント〈Melody Cat〉をやってはいました。そのイベントがあるからバンドの新曲を作ったりはしていて、それがあったから復帰もしやすかったのかな。でも、やっぱり後押してくれる力がないと、自分たちの力だけでは作るところまではいかなかった。みんなもういい歳でバンド以外の仕事を並行してやっていて、片手間にはできなくなっちゃってるんです。
──無理やりにやるのは違う気がした、ということでしょうか?
昔、一生懸命活動していた頃は、常に海外のレーベルやバンドから連絡が来たり、こっちも海外の動きが気になったり、自分がやろうと思う以前にいろんな関わり合いができちゃって話が進む、みたいな状況があったんです。音楽のムーヴメントってそういう自然なやりとりでできあがっていくんですよね。無理やりやるのはなんか違いますよね。
実は、ファーストを出した2、3年後に、Pervencheでセカンドも作ったんですよ。でも、その作品は完成直前にお蔵入りにしてしまいました。できあがったものがメンバーはなんとなく気に入ってないんだけど、どこが悪いのかもよくわからない状態になってしまって。私たちはファーストの頃はあんまりレコーディングの知識がなくて、感覚重視で作業を進めてたんですけど、その次を作るときは「もっとちゃんとしたほうがいい」みたいな意見に流されてしまったんですね。その結果、音質とかはめちゃくちゃよくなったんですけど、私たちは「うーん、違う」となったという感じです。「インディーズあるある」みたいな成り行きでした(笑)。
ちゃんとすることでいい化学変化になっていけば、メジャーデビューしたり、職業になったりしたのかもしれない。でも今振り返って思うのは、自分のなかに「うまい/下手とか関係ない」という気持ちがすごくあるみたいなんです。「世の中に出ていくにはうまくないといけない」みたいな物差しがあるとしたら、その時点で私が目指してるものとは全然違うんだなと思ってました。
──それを自分たちで自覚するために必要な作業だったのかもしれませんね。今ならこういうふうにできるという自信も、21年ぶりの新作にも表れていると感じます。
もともと音楽をやることにはそんなに自信がないんです。自分が好きなものを好きと言うことには自信はあるんですが、それを他の人も共感してくれるのかについてはあんまり自信がない。だけど、私たちみたいな音楽があってもいいんだと、また徐々に実感できるようになってきたことが後押しになりましたね。
ファーストの頃、よくエンジニアの人に「(ボーカルが)フラットになってる」とか言われて、ちょっと悩んでいたんです。でも、「そういううまさじゃない、私は」と今はもうわかってるので、堂々と世の中の基準は無視できたというか(笑)。これが好きだという気持ちで作れました。