祖父の命令は絶対

 当時の僕は大学浪人中。父の勧めでアメリカの大学で経営学を学ぶ予定だった。若い頃はとにかく好きなことをやって、その間に戻ってきたくなるような会社にしておくと言ってくれた。

 しかし父の死後、戦中派の叩き上げの祖父に、そんなことは一蹴され、僕は建築の専門学校へ入学。高校から文系だったので、三角関数すら分からないし嫌だったけれど、祖父の命令は僕たちにとっては絶対なので従った。

 祖父は会長のまま、専務が社長に昇格、会社に携わっていなかった母も副社長となり、会社はリスタートした。そんな中、将来的なことを考えた周りの大人たちの意向により、僕は祖父の養子になった。

 それから、年に1度のペースで祖父の甲状腺に癌ができると、手術を繰り返した。会社を担い、会長としての地位を維持しながら、手術に臨むのは並大抵の精神力ではなかったと思う。退院すれば1日も休まず出社。当時は少しくらい休んだらいいのにと思ったが、今になって考えれば、ひとえに会社のため、そして僕のためであったと思う。

 浜松の大学病院、独房のような場所での放射線治療もやった。浜松まで東名高速を2人で何度か走ったのは、今となってはいい思い出。由比ヶ浜の眺めが綺麗で、セルシオのカーステレオからは、いつも美空ひばりが流れていた。今なら楽しく聴けるけれど、当時はそれが凄く嫌だった。

 やがて癌は、身体のあちこちに散らばっていった。痛みも相当あったと思う。もう手術には耐えられないと、長年の主治医に言われた祖父は素直に受け入れた。

 その直後に迎えた父の7回忌、祖父は酸素吸入器を引きずりながら、大勢の出席者を前にして、渾身の力を振り絞り「要一郎が私の後継者である」という話をした。

 任侠映画かマフィア映画のようである。

 しかし力を使い果たし、祖父はすぐに入院した。本人も周りも、最後の入院だと覚悟をした。痛みも限界を迎え、主治医の勧めで強い痛み止めを投与、痛みが楽になるのと引き換えに、今までの祖父ではなくなってしまった。

 夜中に「図面を持ってこい!」と叫ぶ。誰もがそれを鎮めようとしたが、僕は新聞紙を開いて「平面図です」と言うと、それを図面に見立てていろいろ言いながら、興奮もやがて収まり、穏やかに、そうかそうか、そういうことかと一人頷いていた。きっと若い頃に自分が苦心した現場のことなど回想しているのかと僕は感じた。

 悲しいけれど、振り返ってみればかけがえのない時間だった。僕にとって、祖父はおじいちゃんではなく、上司、尊敬すべき会長。まるで映画のように、病室で大勢の人に見守られながら、祖父は天国へ旅立った。

小さなキッチンでパパッと料理 撮影/伊藤和幸