2022 年10月5日、西城秀樹さんの「新曲」がリリースされた。
タイトルは『終わらない夜』。
誰もが認める永遠のスターの逝去から4年──。未発表のままのこっていた歌声が新たに録音されたバンドのサウンドとともによみがえり、大きな感動を呼んでいる。
作曲とプロデュースを手がけたのは、秀樹さんのバンドのギタリストとして活躍し、実の甥(おい)でもある宅見将典さん(43)。現在は米ロサンゼルスにも拠点を置くが、9月のコンサートの前に日本で話を聞いた。秀樹さんが遺した思いとは……。
『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』に導かれて
「この曲を書いたのは2006年。秀樹さんのバンドでギターを弾きながら、作曲家としても活動を始めたころでした。秀樹さんが “じゃ、書いてみろよ” とチャンスをくださったんです。秀樹さんと相談して、ジャジーでファンキーなカッコいい曲にしようよ、と。
そのときの自分はまだ27歳。つたないデモ音源なんですが、私が歌ったデモの仮歌を聴いて秀樹さんが覚えてくださった。で、バンドのメンバーはみなさんプロなので、リハーサルしたらすごくいい感じで。コンサートの1曲目でやることになりました」
──タイトルは最初から『終わらない夜』に?
「はい。決まっていました。歌詞は僕がいろいろ作詞をお願いしていた柳達基(やなぎ・たつき)さん。もともと僕の高校の英語の先生なんですが、プロとして作詞もしている方です。しかも秀樹さんの世代。それで、秀樹さんがイメージする曲の世界を僕が伝えて。
だから、秀樹さんの監修のもとにできた曲だと思います」
──ざっくり秀樹さんからは、どういう発注があったんですか。
「とにかく男の、カッコいい、夜の歌にしたいと。ジャズしかり、ブルースしかり。お酒を飲みながらバーで聴いたりする感じで。秀樹さんもバーカウンターは大好きじゃないですか。
とにかくどれだけホールが空いていても、カウンターに座るっていう」
──そうなんですか!
「いっつもです。カウンターがあれば、ぜったいカウンターに行くんです。お好み焼き屋さんでもどこでも。食べにくいと思うんですけど(笑)。
いちど理由を聞いてみたんです。“秀樹さん、こっちに座らないんですか?” “いいんだよ、こっちで”。なんでですか!? って聞いたら、“男のロマンがあるんだよ”って言われました(笑)。とにかくカウンターは男のロマンだそうです」
「なので、そういうバーカウンターで聴いてもカッコいいような世界観に。
そのころ秀樹さんは『Same old story -男の生き様-』という曲を出されているんですけど(シングル『めぐり逢い』のカップリング)、それがホーンセクションの入ったブラスの効いた曲なんですよ。“これ、カッコいいよね〜”と言ってたのでその曲を意識しながら、テンポはもっと早くしてみました」
──『終わらない夜』はいちどコンサートで披露されたあと、レコーディングもされた。
「秀樹さんも気に入ってくださって、2007年に録音しています。ただ、当時のメジャーレーベルをとりまく音楽状況として、なかなかCDが売れない時代で。どうしても確実にセールスが見込める作品が求められる傾向がありました。
そうしたなかで秀樹さんにはあまりに有名な金字塔の曲がありすぎて、新曲を出そうという機運には至らず……。で、いったん置いておこうと、そのまま次に向かったんです。するとだんだん私も忘れていくし、秀樹さんもまたご病気をされた。決して曲がボツになったわけではありませんが、録音されたままずっと眠っていたんですね」
時は流れて、秀樹さんが亡くなった約1年後の2019年。ロサンゼルスに拠点を移していた宅見さんが、ふと『終わらない夜』を思い出す瞬間がやってくる。
「車でフリーウェイを走っていたら、秀樹さんの『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』のジャケットに写っている高層ビルが見えたんです。空港の近くのセンチュリーシティという場所なんですけど、なんとなく話には聞いていたので、降りて近くに行ってみました。写真と同じように建っていて、“ここで撮ったんだ〜”って不思議な感覚になりましたね。
秀樹さんと僕は叔父・甥の関係で、同じ業界・違う職業ですけど、やっぱり海外に住んでいると祖国のことだったり、家族のことだったり、いろいろ考えるんですよ。そんな感じでビルを見上げていたら、この場所に導いてくれたのも秀樹さんなんだ。自分は知らず知らずのうちに秀樹さんの背中を追っていたんだ、と気づかされました」
「そして『終わらない夜』を出すなら今だ、と思ったんですね。秀樹さんの歌声のデータはのこっていますから、当時のオケ(伴奏)とは別に、今の自分がしっかりプロデュースしてやり直せば、いいものができるという確信がありましたし。
20代の自分はまだまだ未熟でしたが、30代からいろいろな仕事をやらせてもらって、こういう大人の雰囲気のある楽曲を手がけるにはいちばんいい時期なんじゃないか、と。アメリカで築いたコネクションを駆使して、腕ききのミュージシャンたちを集めて、秀樹さんを最高の形でプロデュースしたいと思いました」
コロナ禍の影響もあって実際には3年がかりの作業となったが、
「奥さん(美紀さん)とマネージャーの片方(秀幸)さん、ファンクラブの(中田)葉子さんにご相談して許可をいただいて、今年の2月にニューヨークでレコーディングしたんです。
結果的に秀樹さんのデビュー50周年を飾ることができてよかったです」