高専を卒業し、ゼロから俳優の道へ。渡米しダンスも学ぶ日々
──おひとりで多彩な活躍を続けてきましたが、国立宇部高専の化学科卒業という経歴もユニークですね。なぜ舞台を志したんでしょうか?
「実は高専を卒業しても、就職しなかったんです(笑)。そのころ中村雅俊さんが主演の『俺たちの祭』(1977年)というドラマが放送されていて、劇団員を描いた青春ドラマでした。それを見て“こんな熱い人生があるんだ!”と影響されて上京し、俳優の養成所に入所したのが始まりでした」
──最初はショーのダンサーというより、舞台俳優に興味があったのですね。
「養成所では定期的に試験があって、通らないと強制的に退所されられる環境でした。当然、試験に通るよう演技を学んでいたんですけど、“ダンスもうまいからミュージカルやってみたら”とすすめられたのがミュージカルとの出会いでした。
これが22歳のころでしたが、故郷の山口ではそういう舞台を観る機会はほとんどなかったんです。タップやジャズダンスもやって、ミュージカルとショー、どちらの舞台も並行して経験を積ませてもらいました」
──その後、ミュージカルダンサーとして活躍しつつアメリカに留学もされました。
「僕がダンサーになりたての1980年代は、今ほど男の人がダンスができる環境も整っていませんでした。僕のような経歴は珍しいですね。バブル崩壊のころから、日本でダンスショーの数が減ってしまって。もう1回ダンスを勉強したいと考えていったん事務所もやめて、ニューヨークでダンスを勉強しながら舞台にも出させてもらっていました」
──演出や脚本を始めた動機はどんなものでしたか?
「オリジナルの舞台が作れないかな、と留学体験も経て思い始めたことでしょうね。ニューヨークで舞台に立った経験なども“すごい!”と言ってもらえる反面、日本独自のショーやミュージカルはというと、欧米に比べてまだまだというイメージを持たれていて。
自分は体格がそこまでよくはないし、日本のエンタメに何ができるかと考えて、作り手になろうと思いました。舞台に立つ身として自分なりにアイデアも溜まってきて、他の誰のアイデアでもない、自分の発想でできるオリジナリティにこだわって、なおかつレベルの高い舞台が作りたい。それなら自分でやろうとなりました」
──ダンサー・俳優だけでなく、そうした裏方の仕事も兼ねることに大変さはなかったんでしょうか?
「自分のアイデアを形にするなら、演出も振付も脚本も全部僕ひとりでやるほうが手っ取り早いし、そしてそのほうがタダだし(笑)。もちろん気心通じた役者のみなさんに助けられているのは大きいですね。僕ら作り手が思うことをツーカーで理解してくれる役者がいると、こちらもスムーズに仕事ができます。
というか、いい舞台ができるか、満足いく表現ができるかは役者との信頼関係にあるといっても過言ではないです。あとはもう、本を読んで勉強もしましたが、現場でノウハウを身体で覚えてここまできた感じです」
──役者との信頼関係が大切なのはもちろんですね。コミュニケーションで気にかけていることはありますか?
「演出家や脚本家と俳優、上下関係があるわけはないけれど、個人的には否定から入られるとちょっとやりづらいなあと思ってしまいます。だから僕は俳優の立場でいるときも必ず肯定、それも即レスのような感じですぐ答えを返していくようになりました。
そして、みんなの意見を聞きすぎてもいけないけど独りよがりはダメで。ひとつの公演を作るにあたって、絶対にお客様に伝えたいことや譲れない価値観というのは必ず持っています」
──そのようにして、20年以上にわたってショービジネスの第一線で仕事を続けてこられたんですね。
「僕が演出や脚本や振付を学び始めたころは、舞台でもひとつの道を究めるのがよしとされる時代でした。二足のわらじを履く何でも屋はあまり好かれていなかったんです。でもちょうど同世代の宮本亜門さんも演出や振付で活躍するようになった時期で、彼の活躍にも触発されてモチベーションになったと思います。
僕も若いころはまだまだ技術も拙かったかもしれませんが、客席を楽しませたいというパッションだけは一貫していました。演出家・構成・振付・俳優などひとりで何役もこなしますが、舞台業界の人や仲間はやはり大好きで、彼らに助けられて僕の作品があります」