「あらゆるものをイベントに!」をコンセプトに、2007年から運営しているイベントハウス型飲食店「東京カルチャーカルチャー」。アイドルやサブカル、音楽、嗜好品、企業、商品など幅広いテーマで、年間400本以上(2021年度実績)の多種多様なイベントが開催されており、ここから生まれたカルチャーやコミュニティも多く存在しています。
そんな、さまざまな“好き”が交錯する場所で、長きにわたりイベントの企画と制作に携わり、皆から親しみを込めて“カルカルの宮尾さん”と呼ばれるその人が、現在でも月10本以上のイベントを世に生みだしている宮尾亘さんです。
「生涯、イベントを創っていきたい」
今でこそ、そう笑顔で語る宮尾さんですが、今日に至るまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。人生に絶望を感じた日から睡魔と闘いながら足を運んだニコニコ超会議、運命の分かれ道となったある人たちとの出会い、そして迎えたコロナ禍。
人がリアルに集い、同じ時間と空間を共有するイベントに魅了され、文化祭のような一夜を創り続ける宮尾さんはなぜ、人生をイベント制作に捧げると決めたのか。お話を伺っているうちに、イベントの未来と人の心を惹きつけるイベントづくりの極意が見えてきました。
「金ない、職ない、若さない」どん底からのスタート
──私の中では、“カルカルの人=宮尾さん”という印象が強いのですが(笑)、どのようなきっかけでイベント制作の道に進むことになったのですか?
イベント制作に携わるようになったのは、実は30代になってからでした。それまでは、写真のスタジオやコンビニで働いていたんですよ。サブカルが好きだったのと、編集の仕事に興味があったので、チャレンジしていたのですが、年齢のこともあってなかなか難しくて。
ちょうどそのころ、SCRAPっていう謎解き団体が「恋愛相談王決定戦」っていう面白そうなイベントを企画していて、その開催場所がたまたまカルカルだったんです。カルカルのHPを見ていると「バイト募集」の掲載があって、イベント制作も面白そうだなと思って、企画書を添えて、応募したんです。
それでADとして採用してもらって、アルバイトから始めました。
──最初のころは、大変なことも多かったですか?
エンタメ界隈のツテがまったくないところからのスタートだったので、かなり苦労しました。
イベントまわりの雑務や制作を手伝うADの仕事や会場の音響・照明・映像などのテクニカルまわりのことも学んでいたのですが、カルカル側としてもイベントブッキングや企画ができる人を求めていたので、自分でイベントを入れるというのが採用の最低条件というところはあって。当時、月に5本継続してイベントをブッキングできると、アルバイトではなく業務委託として契約してもらえるというひとつの目安があったので、まずはそこを目指して自分で企画書をどんどん出していくという感じでした。
本屋さんに行って、自分が面白いと思う本を探しては、「出版イベントやりませんか?」と連絡したり、イベントをやったら面白そうだなと思う人に声をかけたり。なんとなくやっていてもダメだと思ったので、「月に100本の企画書を送る」と決めて、とにかくがむしゃらにやっていました。
──月に100本の企画書! 並々ならぬパワーを感じます。
今でも鮮明に覚えているんですけれど、人生に絶望したことが1回だけあって……(笑)。
写真のスタジオを辞めて、コンビニでバイトしていたころ、当時、三軒茶屋にある四畳半の
ボロアパートに住んでいたんですけど。夜、寝れなくて真っ暗の部屋で、天井をぼーっと見ていたときに「俺……これ人生やばいな」と思ったんですよ。「金ない、職ない、若さない」三重苦じゃん!! と思って(笑)。
本気で人生ちゃんと考えて動いていかないといけない、これはラストチャンスだと思ったんですよね。
なので、カルカルでとにかく3年働いて、業務委託もされないようだったら、きっぱりと好きなカルチャーを仕事にするのは諦めようと決めていました。
働いていたコンビニで、店長にならないかという打診も受けていましたし(笑)。