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社会

渋谷で子育て中の人とまちの人をゆるやかにつなぐ。産後の壮絶な体験を乗り越えた大和桂子さんが目指す社会とは

SNSでの感想
渋谷にある子育て支援センター「coしぶや」のコミュニティコーディネーター・大和桂子さん。紆余曲折を経てたどり着いた場所で、「社会とつながる」想いをお聞きしました 撮影/矢島泰輔
目次
  • アーティスト活動からラジオDJまで。好きなことに挑戦してきた20代
  • きっかけは、産後5日目に経験したくも膜下出血と友人の家出だった
  • 社会をまるごと変えないといけないと感じた
  • 子育てにまつわるさまざまなテーマをよりポップに発信したい
  • 声にならない声を集めて、現場から社会を変えたい
  • やさしい世界をつくりたい

 東京・渋谷の真ん中にある、子育て支援の拠点施設「渋谷区子育てネウボラ」。施設内にある子育て支援センター「coしぶや」には、子どもたちが自由に遊べるひろばや誰でも使えるカフェなどが常設されていて、元気な子どもたちの声が響きます。

 主に、子育てをする人たちをさまざまな面でサポートするこの施設で“コミュニティコーディネーター”として働く大和桂子さんは、ちょっと変わった経歴の持ち主。

 今まで保育の現場にいたわけではない彼女が、渋谷の真ん中で“ちょっと派手に”そして“ポップに”子育てをする人たちが抱える問題を発信し、親御さんたちの悩みに寄り添っている……。そこにはどんなストーリーがあったのか、ご本人に伺ってみました。

アーティスト活動からラジオDJまで。好きなことに挑戦してきた20代

──この仕事に就く前までは、どんなことをやっていたのですか?

 福岡でバンドとしてアーティスト活動をしていた際に声をかけられたことがきっかけで、東京のレコード会社に就職しました。

 最初の3年間は、新人発掘の部署にいたので、夜な夜なクラブやライブハウスに足を運んでは、いいなあと感じるアーティストをピックアップして、レーベルにプレゼンしたり、オーディションを企画したりしていました。その後の3年間は、レーベルに異動したので、アーティストの宣伝にまつわる部分を担当したり、ツアーを一緒に回ったりしていましたね。

福岡ではロックバンドで激しいライブをやっていたそう。驚き! 撮影/矢島泰輔

──「チーム未完成」というグループのメンバーでもあるんですよね?

 はい。レコード会社を退職した後、広告代理店でキャスティングの仕事をしながら、趣味で立ち上げたのが、その「チーム未完成」ですね。チーム未完成では、ZINE(小冊子)や映像を制作する活動をしたり、出展やDJでイベントに出演したりしています。

 結婚を機に、フリーで仕事をするようになってからは、ひょんなことからラジオ番組の制作に携わったり、ラジオパーソナリティとして番組に出演したりもしていました。

きっかけは、産後5日目に経験したくも膜下出血と友人の家出だった

──そこから、coしぶやのコミュニティコーディネーターになるまでにはどんな流れが?

 ちょうどラジオ番組に携わっている時期に、妊娠・出産を経験したんですが、初めてマタニティマークをつける側になって、身体はしんどい、眠れない。食事や服装の制限、楽しみにしていた旅行はキャンセル。エレベーターや優先席も譲られることは少ないし……。我慢が増え、思うようにいかない。そんな不自由さを初めて経験しました。ラジオ番組のほうでも、妊婦目線・母目線での気持ちを少し織り交ぜて伝えるように意識しはじめました。

多才な大和さん。身をもって話してくださいました 撮影/矢島泰輔

 大きなきっかけになったのは、産後5日目にくも膜下出血で救急搬送されたことですね。私自身がどうなるかわからない不安の中、夫はいきなり新生児と2人きりで過ごすことになってしまい、途中、産院や乳児院に少しお世話になったりもしたのですが、今振り返れば本当に家族全員にとって大変な時期でした。

 約1か月の入院を経て、退院してからも、再発するかもしれないという恐怖と、思うように動かない身体。とてもじゃないけれど子どもと向き合える状態ではなくて。

 夫と私の母が交互に子どもの世話をしてくれて、2人が不在のときは友人にも来てもらったり。なんとか、本当になんとかギリギリ切り抜けたという感じでした。

壮絶な経験を経て、復活できて本当によかったです 撮影/矢島泰輔

──産後はただでさえつらいのに、本当に大変な経験でしたね……。

 いつここから抜け出せるのか、先が見えず、真っ暗で長いトンネルの中を手探りで進んでいる感覚でした。PTSDのような状態になり、不眠も続き、しばらくは、救急車の音を聞くこともダメになり、「脳」という字を見ることすら恐怖でした。

──もはや、人生観も価値観もいろいろ変わってしまうような、大きな出来事ですよね。

 そうですね。初めて、生死にかかわる病気を経験したことで、より、社会の中で生活しづらかったり、生きづらさを抱えている人に目を向けるようになりました。そして大変なときは、ひとりで抱え込まずどんどん人に頼って、甘えていいんだということを学びました。

 私もそのとき、いろいろ調べたんですけど、産褥期に同じような病気をした人の情報があまり見当たらなかったんです。近い状況で今苦しんでいる人のためにも、自分の体験を「伝えたい」「残したい」と思っていて。だからこういう取材も来たら、絶対受けたいって思っているんですよね。

実感がこもっているからこその説得力です 撮影/矢島泰輔

──ご自身のその経験が、子育ての現場に入るきっかけになったというわけですね?

 もちろん、それもひとつのきっかけではあるのですが、実は直接のきっかけにはなっていなくて。一番大きかったのは、パートナーの仕事が忙しすぎて、長い間ワンオペで育児を続けていた友人が、耐えかねて家出をしたことでした。

 その頃には、うちの子も1歳になっていて、私自身が育児に少し慣れてきて、「人に甘えていい、頼っていい」というベースもすでにあったので、迷わず友人のもとにすぐに駆けつけました。

 子どもと一緒にホテルに滞在していた彼女の隣で、本人の話を聴きながら、シッターや一時保育の情報を一緒に調べて連絡したりしましたね。

社会をまるごと変えないといけないと感じた

──今度は、大和さんが誰かに手を差し伸べる側になったわけですね。

 でも、そのとき思ったんです。一時的に彼女の負担を軽減できても、彼女のパートナーの仕事の忙しさは変わらない。パートナー自身が会社に相談できない壁があるのかもしれない。これは、もう会社の問題でもあり、ひいては社会の問題でもあるんだなって。

 子どもは社会の未来でもあるし、そこに期待する大人はたくさんいるのに、子育ての全責任が親の頑張りや我慢だけにのしかかってくるのって、なんかおかしくない? と思い始めて。

 もっと行政に近いところで、なんならシステムそのものを変えるくらいの気持ちで、子育てをしている人の力になれる仕事がしたいと思ったんです。その日の夜には、「子育て支援」というワードで検索したりして、もう転職先を探しはじめていました。

coしぶや3階の「子育てひろば」。木製のトンネルからこんにちは! 撮影/矢島泰輔

 それまで保育の現場では働いたことがなく、資格もなかったので、なかなか働ける場所が見つからないなか、たまたまcoしぶやの求人を見つけて。

 いくつか職種があるなかで、経験や資格がなくとも、企画力・クリエイティビティ・調整力を求めるという「コミュニティコーディネーター」なるものが目に飛び込んで。しかも渋谷に新しくできる、区の施設。「もうこれは私がなるしかない! 絶対やりたい!」という気持ちで、頼まれてもいないのに20ページくらいの企画書まで書いて(笑)、応募しました。

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