相手のいろいろな面を知って愛していく

──浩輔と龍太のシーンは、かわいらしさと脆(もろ)さ、儚(はかな)さもあって切なく描かれているなと感じましたが、龍太役の宮沢氷魚さんとは現場でどのようなコミュニケーションをとっていたのでしょうか。

 演技のことやお互いの役について話すことはなかったですね。そのままの氷魚くんがとても龍太っぽかったので、普通の会話をしていました。彼は長くアメリカに住んでいたので「どういうところだった?」とか何気ないことばかりでした。

 僕は役としてだけで相手を愛するタイプではなく、どちらかというと共演する方のいろいろな面を知って他人と思えなくなることで愛していけるタイプだと思っているので、氷魚くんとはお互いリラックスして信頼できるような関係を作りたいなと思っていました。そういう日常的な会話の積み重ねが、お互いを好きになって、距離が近づいていく感じにつながったと思うので、それをすごく自然にできたのは相性がよかったなと思います。

──鈴木さんが原作の文庫版のあとがきに寄稿された中でおすすめしていた、高山さんの著書『恋愛がらみ。』と『愛は毒か 毒が愛か』も読んでみたのですが、中々の毒っ気をお持ちの方のようで。

 あんまり言うと誤解されるかもしれないですけど、僕は浩輔という人を「いい人にしたくないな」と思ったんです。高山さんのエッセイを読んでも、結構毒があるんですよ。ご本人も作品ではフィクションのキャラクターとして描かれているので、そのへんはまろやかにされているんですけど、高山さんの周囲の方にお話を聞いても、なかなかに毒をお持ちの方だったようです。

 映画の中の浩輔は、わりと好きな人たちといる時間だけで描かれているので、結果すごく「愛情深い人物」に見えると思うんですけど、実は嫌いな人には結構ズバズバ切っていくところもあるかもしれないし、人によってはあまり友達になりたくないと思われることもあったかもしれない。そういう強さと頭のよさ、冷酷さも持った人が見せる不器用な愛情というのを、自分としては大切にして演じたつもりです。

鈴木亮平さん 撮影/有村蓮

──著書だけでは見えてこない高山さんの裏側の一面も見つけられたのですね。

 どの役をやるときもそうですが、その人のイメージを一面だけで捉えてしまうと、見てくださるお客さんにひとつの色しか伝わらない気がして。なので、僕はいつもその反対側を分厚く自分の中に作っておくクセがあります。そっち側は見えなくていいんですが、その結果、表側の色が一色ではなくて、なんだか複雑な興味深い色になっていればいいな、といいますか。

 例えば、冒頭で浩輔がグラビアの撮影しているシーンがあるのですが、内心では「ダッサ!くだらない撮影だな」という気持ちでいるほうが、普段の浩輔なんじゃないかなって思っていたり。本当はもっとハイファッションの雑誌をやりたいのに「これが仕事だしルーティン」って思っているかもしれない。そういった部分を大切にしていきたいと思っています。

手は雄弁!

──作中で、手を握ったりさすったりといった「手」の動作や仕草がアップになることが多いなという印象を受けました。中でも、寝落ちしてしまった龍太の指一本一本にハンドクリームを丁寧に塗ってあげるシーンは、浩輔の「愛のカタチ」を表しているなと感じたのですが、鈴木さんは本作において「手」に何か意味があったと思われますか?

 ハンドクリームを塗るシーンは、松永監督がその場で出したアイデアだったので、きっと監督の中で「手が触れ合う」ということに何か意味があったのかなと思います。

鈴木亮平さん 撮影/有村蓮

 僕は手ってすごく雄弁だなと思いました。あえて手で何かを表現しようとした訳ではないですが、どうしても気持ちって手と顔に出ますよね。わからないけれど、もしかしたら人間はどこかで二足歩行を始めて、手を使うようになったことで「手」で愛情表現をすることが多くなったのかもしれないですよね。あとは何かを表現するとき、例えばダンスをされる方も常に指先までその人物になるようにというのはどこか無意識にしていると思うし、僕だけじゃなく俳優は自然とみんなその訓練をしているんじゃないかな。