アクターズでは指導者も兼任するように。再びデビューのチャンスを迎えるも……
──アクターズでの第2章が始まったのですね。
「このときから、父は私に対してものすごく厳しくなりました。人前で恥をかかせようと、みんなの前で言ってほしくないことをバンバン言うんですよ。何度ほかの生徒の前で土下座して謝らされたか、わからないですね……。でも悪意があったわけではなくて、無駄なプライドが邪魔してカッコつけている私を、1回ぜんぶ壊そうって思ったみたい。私は、今ここを辞めてもほかでやっていけないことが、もうさんざんわかっていたので、とにかく必死に食らいついていました」
──そこから、『SUPER MONKEY'S』(スーパーモンキーズ。安室奈美恵さんやMAXのメンバーも在籍していたダンスアイドルグループ。以下、モンキーズ)のリーダーとして'92年、20歳のころに再デビューすることに。
「まず、アクターズは'83年に開校したんですけど、そこから安室奈美恵がブレイクするまでに10年くらいかかっています。父は“沖縄の子たちの才能はすばらしいはずなのに、もう一歩、先に行けない”とずっと悩み、育成方法を変えていくべきではないかと考えていました。そこで、のちにモンキーズのメンバーになる子たちが10歳くらいでアクターズに入ってきたころ、歌やダンスのレッスン以外に、メンタルトレーニングもスタートしたんです。父は奈美恵をひと目見て、“これだけの逸材にはもう出会えないかもしれない。この子で勝負をかける”と言っていたので、そうとう気合いが入っていたと思います」
──そうして新たな育成法が組まれるとともに、奈美恵さんやアンナさんを含む、SUPER MONKEY'Sのメンバーが決まっていったのですね。
「周囲と支え合い、高め合うことを覚えるにはソロよりグループがいいだろうということで、最初にモンキーズの前身となるグループができて、私がリーダーを務めることになりました。レッスン後に2、3時間と話し合う日も多くて、歌って踊る時間よりも、そっちのほうが長かったくらい。当初の狙いどおり、メンタルを鍛える時間を大事にしたんです」
──テクニックの面でいうと、何か工夫された部分はありましたか?
「歌とダンスでは、激しいパフォーマンスをしても声がぶれない、マイケル・ジャクソンのような海外のアーティストの研究をしました。ビデオを見ながら父が私に指導するのですが、私は身体が思うように動かない。父は天才型だったので、何でもすぐできてしまう。だから父は、“できない理由がわからない”って言うんです。でも、“お前の場合は、できないところからできるようになるプロセスをたどれるから、この先、それを人に教えられるようになればいい”と。もともと沖縄に戻ってきて以来、父から“お前は表舞台に立つよりも指導者向きなんだ”と言われて、インストラクターもやっていたんです。振付とか、生徒の面倒を見たりとか、モンキーズのメンバーへの指導もしていたんですが、当時の自分にとっては、“指導者=本当に地味な裏方”みたいな印象だったので、仕方なくやらされているっていう気持ちでした」
──そんな中、モンキーズで無事に再デビューできてよかったですね。
「モンキーズがデビューするとなったとき、父は私をメンバーから外そうと決めていました。でも私はまたデビューして、芸能界で成功したい。もう1回挑戦しないと絶対に後悔するっていう思いがあって抵抗したんです。父から“(お前がレッスンを見ている)子どもたちを置いていくのか”ともキツく言われましたが、プロダクションの社長が、私がいるほうがほかのメンバーも安心だろうと言ってくれたこともあって、一緒にデビューできることになりました」