星野源にとって嘘とは何か?

《どうせなら 嘘の話をしよう
苦い結末でも 笑いながら
そう 作るものだろ》
──『フィルム』より

《日々のパロディ
遠い先へ 僕を運ぶ
ぜんぶ嘘さ 汗の混じった
妄想がつくる川 海へつづく》
──『パロディ』より

 私は星野源の歌う「嘘」たちが好きだ。その本当ではないものたちは、誰かを騙したり欺いたりするものではなく、本当ではないと知られていてなお、自分も含めた誰かの支えになるものだからだ。どれもみな、優しいお化けなのである。

《ギャグの隙間に 本当の事を
祈るみたいに隠して》
《馬鹿みたいだろ ただ笑うだろう
目の前を嘘と知って
誰かが作る 偽の心を
腹の底から信じて》
──『ギャグ』より

 どの曲も『地獄でなぜ悪い』と同じで、「嘘」という言葉が「fake」ではなく「fiction」の意味として歌われているように思う。その「嘘」は単なる「真実ではない」という意味を越え、現実を編集し、物語り、そうあってほしいという祈りにあふれている。

 そして、『フィルム』では「闇」が、『ギャグ』では「涙」や「弱さ」、『パロディ』では「汗」といった言葉が象徴するように、嘘の周りには常に何かしらの痛みや苦労が付帯している。

 また、厳密には「嘘」の文言は使われていないが、近い言葉として『アイデア』という曲では、その詞において、アイデアとは常に何かしらの障壁や悲しみを乗り越えて生まれうるものとして歌われている。

《つづく日々の道の先を
塞ぐ影にアイデアを
雨の音で歌を歌おう
すべて越えて響け》
──『アイデア』より

 星野源の楽曲では、嘘は現実の痛みとともに歌われている。逆を言えば、現実への眼差しがなければ、嘘もまた生まれえないとも言えるのかもしれない。

 この前提に立ったとき、星野源の歌う「嘘」の向かう先が少しずつ見えていく気がする。嘘は現実に根ざし、現実は嘘によって映される。嘘と現実は互いに否定し合う関係ではなく、コインの表裏、光と闇のような一体の関係性なのだ。

 だからこそ、星野源は、手放しで「すべてはあなたが思うがまま」だとは歌わない。もちろん夢を見ることの素晴らしさは歌うが、その足は常に冷たい地面の上にある。「imagine = world」の図式は単独で成立せず、その「imagine」は常に地獄(現実)からの跳躍として現れるのだ。

 余談にはなるが、それを表したのが『夢の外へ』の《嘘の真ん中をゆく》というスタンスなのだと私は思う。さらに言えば、私たちが星野源の楽曲を聴いたときに感じる、ポジティブだけどどこか切ない感じは、そうした二つの世界の揺れが根底にあるからなのではないだろうか。

《動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ》

 文字面はおぞましくあっても、なぜか優しさを感じてしまうのは、地獄の先に見えているのが嘘という名の希望であると、星野源リスナーの私たちは知っているからだろう。