松本零士先生が亡くなった。85歳だった。多くのアニメ作品に携わり昭和という時代を松本零士ロマンで彩り輝かせてくれた──。
すべてのアニメブームを体験してきた50代の私も、もちろん子どものころから松本零士ワールドの虜(とりこ)だった。『宇宙戦艦ヤマト』に始まり『宇宙海賊キャプテンハーロック』『銀河鉄道999』と次々、夢中になった。特に劇場版『銀河鉄道999』は今も私にとって人生最高の映画だ。
松本零士ファーストインパクト
多くの人と同様に、私の松本零士ファーストインパクトも、『宇宙戦艦ヤマト』(1974)だった。
第二次大戦の遺物である戦艦をSFという魔法で空に飛ばした宇宙戦艦ヤマトは最高に格好よく、SFと戦争ものが融合した物語にあっという間に引き込まれた。
……と言っても、私の住んでいた長野県で『ヤマト』が初めて放送されたのは、1976年4月からで、本放送終了から1年以上も後のことだ。
松本零士先生は監督として『ヤマト』の企画に参加しているが、キャラクターやメカニックなど、後の東映作品よりもドロ臭く松本零士先生らしさが強く出ている。(演出の石黒昇さんは後に『超時空要塞マクロス』(1982)『銀河英雄伝説』(1988~2000)を監督している。)
当時の長野県には民放が2局しかなく『ヤマト』が放送していなかった。おかげで長野県の子どもたちは迷わず『ハイジ』を見ていた。
1974年、日曜の夜6時から8時までは『ガッチャマン』『サザエさん』『グレートマジンガー』『ハイジ』と続けて放送され、子どもには、まさにゴールデンタイム、天国だった。
まさか『宇宙戦艦ヤマト』が『アルプスの少女ハイジ』の裏番組で視聴率に苦戦して打ち切りになり、26話に短縮されたことなど8歳の小学生は知るよしもない。
その後、再放送で高視聴率をとり、雑誌で特集され、テレビ版を再編集した劇場版『ヤマト』(1977・151分・配給収入9億円)が公開されると大ヒット。後のアニメブームをつくる礎的作品となっていく。
『ヤマト』も『ガンダム』(1979)も打ち切られ、放送終了後に熱狂した若者にけん引され大ヒットしている。同様に『エヴァ』(1995)の社会現象化も放送終了後のことだ。
『ヤマト』の大ヒットは、一流スタッフが結集した続編映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978・151分・配給収入21億円)の印象が大きい。沢田研二さんの主題歌『ヤマトより愛をこめて』も大ヒットした。あまりにも衝撃的で「さらば」な結末に多くのファンが涙し、話題となった。
が、『さらばヤマト』のテレビ版『宇宙戦艦ヤマト2』(1978)では、映画版と異なる完結しない結末に当時の子どもたちは初めて味わう「大人のヤリクチ」に大いに混乱し物議を醸した。その後も『ヤマト』はプロデューサーの西崎義展さんによって作られ続けることになる。
(『さらばヤマト』には『ガンダム』の安彦良和さんも絵コンテなどで参加していて、印象的な古代進と森雪の並んだポスター用イラストを描いている。ペンが苦手で漫画家を断念していた安彦良和さんは「筆もアリだよ」と松本零士からアドバイスされたことが後に漫画を描くきっかけになったという。ちなみに『さらばヤマト』作画監督の湖川滋さんは、後にテレビ版『999』や『伝説巨人イデオン』(1980)などを手がけた湖川友謙さんの旧名。)
ムック本やプラモデルなども続々販売され『ヤマト』への枯渇感もかなり解消された。ヤマトが表紙を飾った『アニメージュ』(徳間書店)の創刊も同時期のことだ。
アニメがまだ“テレビまんが”と呼ばれた当時は人気漫画家がアニメ企画によく起用されていた。『ヤマト』のヒットで松本零士先生もこの時代の日曜夜7時を席巻していく。大人気だった永井豪先生原作の『UFOロボ グレンダイザー』の後番組として『惑星ロボ ダンガードA』(1977)が始まり、『SF西遊記 スタージンガー』(1978)、『SF西遊記スタージンガーII』(1979)と続いた。
日曜夜7時を華々しく飾ったが、いずれの作品も東映らしいカラフルで明るい子ども向けの娯楽作で人気を博したが、『ヤマト』に比べると松本零士色は薄いものだった。
『ヤマト』や『ダンガードA』は、松本零士先生が描いた漫画版もあったが、どちらも単行本2冊程度でアニメのタイアップ作品感は否めなかった。『ヤマト』の漫画版は、テレビの内容に沿った、ひおあきら先生も人気が高かった。