演出志望から役者の道へ。「全然面白くない」と言われ──

──'80年代には、野田秀樹さんや三谷幸喜さんを中心とした小劇団ブームが起こりました。数多くの小劇団が活動する中、どうしてナイロンに所属されたのでしょうか。

「最初は、『五月舎』('71年~'91年まで活動していた演劇団体)という養成所に通っていたんです。『五月舎』はレッスン費がかからなかった。ほかに『無名塾』(仲代達矢が主催する演劇団体)も無料と聞いていましたが、私の中で無名塾は、美男美女しか入れないイメージだったんですよ。(目を見開きながら)女性は目がパッチリして、髪の毛が長くて……っていう、まさに王道、みたいな」

──(笑)。

「『五月舎』に入ったら、そこに犬山イヌコさんがいたんです。実は私、最初は俳優ではなく、脚本を書いたりしたくて演出部志望で入所したんですよ。だけど、演出部も俳優のレッスンを受けなくてはならなくて、卒業公演で『11匹のねこ』を演じたときに“あ、役者側も楽しいな”と感じたんです。2年にわたる養成期間が終わったころに、犬山さんから“面白いことを始めようと思うのだけれど、一緒にやらない?”って誘われて。それが『劇団健康』(ナイロンの前身)だったんです

「犬山さんの誘いに乗ったときから人生が動き出しましたね〜」と峯村さん 撮影/矢島泰輔

──『劇団健康』には、田口トモロヲさんや手塚とおるさんなど、現在も活躍されている役者が出演していましたね。

「手塚さんがオーディションを受けにいらしたときは、私も審査に立ち会ったんです。手塚さんは最初から“すごく面白い人が来た!”って、みんながざわつきました」

──『劇団健康』は実験的な演劇が多い印象ですが、演じている側としてはどうでしたか?

「いや~。当時の事件を風刺したものとか、ちょっとした差別ネタとか、今だとがっつり怒られそうなネタもありましたね。最初のうちは普通にお芝居をしていたんですが、ケラさんが“ダメ、ダメ。全然違う。面白くないんだよね”って言うんです。そこで逆ギレして(笑)、台詞を思いっきり棒読みにしたんですよ。そうしたら、“それ、それだよ!”って。『健康』での指導を受けているうちに、さまざまな価値観がぶっ飛びましたね

──ナイロンの芝居は、きれいな女優さんでも、“美人”という立ち位置ではない役柄であることも多いですよね。

「そうですね。犬山さんは、『予定外』という芝居では立ちションするシーンまでありましたからね(笑)。でもケラさんは、女性を描くのがうまいし、好きなんですよ。“女の人って、それまでさめざめ泣いていたのに、次の瞬間、アハハハ〜って笑ったりもするでしょう。そういうところが面白くて書きやすいんだよ”って言っていました」

──ナイロンの芝居の中では、男性器の名称などを叫んだりするシーンもありましたが、やりたくない役や言いたくない台詞などあったりしましたか?

「あ~。そういう台詞もありましたね。でも慣れちゃうのかな(笑)。まったく嫌だと思ったことはないです。(芝居が)楽しいから、いいんでしょうね。逆に楽しくなかったら、“絶対に言いたくない”って主張していると思います」

ほぼノーギャラで働き、アルバイトと実家暮らしで乗り切った過去も

──'23年3月、ケラさんが自身のTwitterで《1月の収入1万6千円、2月の収入2万8千円て、こんなに働いてるのに》とつぶやいて、話題となりました。峯村さんも金銭面での苦労などありましたか?

最初のころなんて、お金をもらった記憶はほぼないですね……(笑)。ナイロンになってからも、初期の公演はノーギャラでした。ただ、『健康』のメンバーは、『冗談画報』('85年~'88年、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組)などに出ていたので、その出演料はもらっていましたが。劇団『大人計画』と一緒に深夜番組に出たこともありますね。あとはみんなバイトをしたり、実家暮らしで乗り切ったり。私も実家だったからなんとかやっていけたけれど、あのころ家賃まで払っていたらちょっと無理かな(笑)

──峯村さんは、どのようなアルバイトをされていたのですか?

某ファーストフード店でクルーをやっていました。意外と普通なんですよ(笑)。仕事内容が精神的に合わず、1日で辞めたバイトもあります」

さまざまな経験を乗り越えたことが、峯村さんの演技をより深いものにしているのだと感じる 撮影/矢島泰輔