本書が目指したのは、狂気と病みをはらんだ『ill』の方向性だった
──ヒップホップについては、正統派であるようなラッパー、ケンドリック・ラマーには懐疑的で、ウータン・クラン(アメリカのヒップホップグループ)の混沌さと理解不能さなどを本書で論じていますね。
「ヒップホップで『Dope』という褒め言葉があるんですよ。『ヤバい』という意味で、ヒップホップの王道をわかってる的なニュアンスかな。それがケンドリック・ラマーの音楽でしょう。
しかし一方、『ill』(イル)という褒め言葉もあって。これは狂気が入っていて、病んでいる感じ。一部の界隈からしたら、『ill』と評されることは最高の勲章になります。例えば、今日持ってきた雑誌『TRASH-UP!! 04』にラッパーのクール・キースVS音楽家・中原昌也大先生の対談が載っていますが、そこでクール・キースは“illest hip hopper”と紹介されていますね。彼は、ほぼ元祖ヒップホップとも言える『ULTRAMAGNETIC MC'S』という音楽グループなどをやっていました。
周りが黒人ゲットー(黒人居住率が高い、スラム街的な側面を強く持つ地域)の貧困を歌うなかで、この人たちだけ、シュールレアリスム(人間の無意識にこそ現実を超えた現実があると考え、その無意識の領域を芸術に投下しようとする芸術運動)だったんですよ。それがソロになったら、ますます加速してしまって。『Dr. Octagon』など、とにかく変名をいっぱい作って、自分のアイデンティティを抹消していきました。自分がつくった同人誌で変名を使いわけて1人4役くらいやっちゃう人いますよね、あれが『ill』です(笑)。
僕の本が目指したのも『ill』の方向性だったんですね。論じる上でストリート的なセクシーな旨味は捨ててしまったんだけど、逆にダイダロス(ギリシア神話の呪われた発明家)的な狂気を得たらどうなるか。15万冊の本を読んだフリをしたヤツが、ヒップホップを論じたらどうなるかという、自分を使った実験みたいなところがあります。いとうせいこうさんが僕の本の帯に『博覧狂気』と書いてくれましたけど、これぞ『ill』ですよね。博覧のあとに強記では順接だから何の葛藤もない。博覧と狂気のあいだでに引き裂かれないとホントじゃないんです。僕はマニエラ(手法)をマニア(狂気)にまで高めるのだ、と言ってるわけです」
SNS全盛となった現代では「感情をいったん遮断する作業が必要」
──時代と距離を置くスタンスなのでしょうか。
「作家・文芸評論家の花田清輝が戦中、30代のころに『復興期の精神』という本を書くんですけど、その中に“晩年の思想”についての文章があるんですね。当時の花田さんが遺書のようにして書いた文章で、“青春など愚昧以外の何物でもない”という風に始まるんです。そんなハードドライな気持ちで生きていかないと、この戦中を生きられないだろうと。
でも実は、花田さんはハリウッド映画を見たら号泣するタイプだったらしい。でも、アメリカの大資本映画で泣いちゃうのは反革命的だとか思ったのか、その涙を遮断するんです。それでレオナルド・ダ・ヴィンチが作ったライオンの自動機械とかどうでもいい話をしたりするから、のちに(翻訳家で評論家の)澁澤龍彥が喜んでサンプリングネタにするんですけど。
僕も映画『ラ・ラ・ランド』を劇場で3度も見て、滂沱(ぼうだ)の涙を流すような感情過多なタイプなんですよ。でも今って、SNSで感情が安易に流される時代にあって、逆に感情をいったん遮断する作業が入らないと、非常に危険だと思ったんです。それを花田に学んだんですが、そもそも黒人音楽の人たちは昔からやってたんだよね。だって、感情を表に出してしまったら命を奪われてしまうことがあったから。
“黒人はオブジェクトだから、感情がなく涙は流さない”とされていた。泣くこと自体が周囲の反感を買うこともあって、涙を隠さなければならず、二重の存在にならざるをえなかった。その存在を論じることで、令和におけるSNS全盛時代やポスト・トゥルース(事実よりも、虚偽であっても感情に訴えるもののほうが強い影響力を持つ状況)時代を生きる術になるんじゃないかって思ったんです。黒人音楽というテーマを通して、そうした哲学を探りたかったんですよね。音楽書に擬態した思想書なんです」
(取材・文/篠原諄也)
【PROFILE】
後藤護(ごとう・まもる) ◎暗黒批評家、映画・音楽ライター、翻訳家。1988年山形県生まれ。著書に『黒人音楽史―奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)、『ゴシック・カルチャー入門』(P-VINE、2019年)。魔誌『機関精神史』編集主幹。Real Sound Bookにて「マンガとゴシック」連載中(書籍化予定)。キネマ旬報、ele-king、Real Soundをメインに映画・音楽・マンガ評を寄稿。