レコード会社の契約が切れて、バンド以外でもキーボード奏者に

──演奏については、スランプなどの時期はありましたか?

「'88年ごろまでは、オルガンで乗り越えていたんですよ。周りから”うまいね“って言われていい気になっていたら、ボ・ガンボス(1995年に解散したどんとをボーカルとする伝説のバンド)が出てきたんです。KYONさん(ボ・ガンボスのキーボード)のうまいピアノを聴いてしまったら、中川も“これからはブギウギやろ”って言いだして(笑)。そこからピアノも弾かないといけない雰囲気になった。でもどう弾いていいのかわからへんし、オルガンとは違うんですよ。オルガンは押さえれば音が出るけれど、ピアノは鍵盤(のタッチ)も重い。周りにキーボード奏者もおらへんし、自己流極まりない感じで'89年ごろはいっぱい練習していましたね。自分でもまじめだなって思っていました。ていうか弾けないんで(笑)

──大阪で結成されて、上京されたタイミングはいつごろだったのですか?

「最初のころは上京せずに、ずっとみんな大阪に住んで、ライブや仕事のときだけ上京していたんです。バンドブームとは違う活動をしているって表したかったし、“なんで東京行かなあかんねん”って思っていた。僕は2002年に東京に来たのですが、今も、中川は大阪です

──奥野さんが上京されたきっかけは何でしたか?

「結局、“全部ずっと東京で仕事しているな~”って思って(笑)。どう考えても東京行ったほうが効率いいなと。あとは'97年にソウル・フラワーがレコード会社と契約が切れたから。広島の居酒屋で、事務所の社長から“来月から給料が出ないんで、各自頑張ってください”って言われたんです(笑)

──以前、フムニューでお話を聞いたフラワーカンパニーズのグレートマエカワさんも、同じようにレコード会社から契約終了を言われたと話をされていました。

「よくある話かもしれないですね(笑)。僕は運よく、自分のバンド以外の仕事をいただいたんです。最初にBONNIE PINKのレコーディングやツアーの仕事を社長が取ってきてくれて。そこから今のキーボード奏者としてのキャリアのスタートですね

奥野真哉さん 撮影/山田智絵

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──いくつものミュージシャンのサポートを担当していると、スケジュール調整も大変なのではないですか。

「ソウル・フラワーの活動を第一にして、ほかの仕事を調整しています。基本的にはスケジュールが合えば参加するっていうスタンスです。でも“俺が弾かんでも別にええんちゃう?”みたいな仕事が来たら考えることもあるけれど、そういうのも今やなくなりましたね」

──バンドとソロ活動の違いはありますか?

音楽活動って、バンドになると各個人の生活やら、ある種、人生も共有せなと思うんですね、長年続けてると。各メンバーの生活面の負担もクリアしていかないと続けていかれへんから、今までどおりのペースでバンドを続けるっていうのはやっぱりすごく難しいですよね。コロナもあったし。でも、やっぱメンバーで集まって音を出してるときの満足感や、何と言っても自分が唯一いるべき場所やから、頑張れる部分がありますね