喉が衰えないようトレーニングは欠かさない。阿久先生と都倉先生への印象は?

 そして「サウスポー」のほうは、野球をテーマにしたアップテンポのナンバーで、今では高校野球の応援歌としてブラスバンドが球場のスタンドで演奏する姿が、春と夏の風物詩でもある。こちらも、ふたりのボーカルがよりパワフルになっている。

「私の場合は、解散まで喉(のど)にポリープができていたのですが、ソロになってからは喉の調子がずいぶんとよくなって、(ソロ・デビュー曲の)『すずめ』を歌っていたころには、もともとのハスキーな歌声を生かして違和感なく歌えるようになりました。そして、30代後半からは、筋肉が衰えないように筋トレとボイストレーニングのレッスンを受けています。今も毎日、最低30分は自宅でトレーニングをしています」

 それにしても、「UFO」では宇宙人とデートしたり、「サウスポー」では、王貞治選手(当時)と思しき人物とマウンドで対決したり、とにかく阿久悠の歌詞のスケール感に驚かされるし、作曲や編曲を手がけた都倉俊一のイントロやメロディーも緻密で、息つく暇も与えない。このピンク・レディーならではの世界を作ったふたりのことを、ケイは、

「おふたりとも『スター誕生!』(オーディション型のテレビ番組)のころからお世話になっているので、ずっと恐れ多いイメージですね。阿久先生は、都倉先生ほど頻繁にはお会いしなかったのですが、目の奥に光るものがあって怖かったです(笑)。だから『スター誕生!』のゲストに呼んでもらったときは、本当に緊張しました。でも、じっくりお話をする時間がない中でも、ちょっと顔を合わせたときなどは、“ケイ、ちゃんと食ってるか” “寝ているか”と、いつも心配して声をかけてくださっていました

白が貴重の爽やかな衣装に、満面の笑みが映える! 撮影/伊藤和幸

 レコーディングで細かくアドバイスを受けたという都倉俊一については、

都倉先生とは10才くらいの年齢差で、他の先生方よりも近いので、恩師として尊敬しつつ、より近い距離感で交流してきました。解散してからは、何年かに一度お食事をしていて、最近では、京都の文化庁に移られる前の日にお会いしました。いくつになられても素敵な紳士なんですよね。昨年出したアルバムの中でも久しぶりに曲を書いていただき、うれしかったです(『向日葵はうつむかない』)!

 でも、阿久先生や土居先生が天国に旅立たれて、都倉先生も私と同じにとても寂しく感じられているのを知ったとき、本当に先生とは同志なんだなと、改めて思いました。だから、これからも、夢の詰まった元気になれる“ピンク・レディー・ワールド”を伝えていきたいです!​

当時も今も変わらずエネルギッシュなケイの姿に背中を押される方も多いことだろう。次回もお楽しみに! 撮影/伊藤和幸

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 これまでのインタビューなどでは、ケイとミーが“ピンク・レディー”というプロジェクトを意識して奮闘してきたことは語られてきたが、今回の取材で、ボーカリストという点においてもより高みを目指してきたことについて、よりいっそう理解できた。もちろん、映像があったほうが多面的な楽しみもあるのだが、映像のないサブスクだからこそ、ミーだけでもケイだけでもなく、ふたりが作り上げた“ピンク・レディー”としての歌声の魅力が、より伝わってくる気がする

 インタビュー第2弾では、レコードの発売から実は3か月もくすぶっていたデビュー曲「ペッパー警部」から掘り下げていきたい。

ピンク・レディーのSpotifyアーティストページも要チェック! ※記事中の写真をクリックするとこの写真と同じページにジャンプします

(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)


【PROFILE】
増田惠子(ますだ・けいこ) ◎1957年、静岡県生まれ。'76年にピンク・レディーとして「ペッパー警部」でデビュー。「UFO」「渚のシンドバッド」ほか数々の人気曲で一世を風靡し、'81年に解散。同年11月、中島みゆき作詞・作曲の「すずめ」でソロデビューし40万枚の大ヒットに。その後、女優として映画、ドラマでも活動。'11年にはピンク・レディーが再始動し、全国22か所でコンサートを開催、翌年'12年にはソロ・デビュー30周年記念アルバム「カラーズ」を発売。10年後の'22年には40周年記念アルバム「そして、ここから・・・」を発売した。現在も歌手活動をはじめ、テレビ番組、ラジオ番組への出演など、精力的に活動中。

◎増田惠子 公式HP→https://www.kei-office.net/
◎増田惠子 公式Instagram→https://www.instagram.com/keiko_masuda_official/
◎ピンク・レディー 公式Twitter(ビクター)→@PinkLady_VICTOR