母への愛から新曲が誕生。ミュージックビデオの撮影も思い出深い場所で
そうした経験から生まれたのが、'23年の母の日にシングルとミュージックビデオが配信リリースされた「Mama」。そっと母に寄り添うような心温まるバラードだ。
「'15年にアルバム『涙河(NAMIDAGAWA)』用の曲を自宅で作っていたとき、階段を下りて母のところに行ったら、リウマチで痛がってウンウンと唸(うな)っていたんです。よほどの痛みに耐えている様子だったので、なんとか励ましたかったんですが、薬も効かないし……。そこで、“そうだ、歌ってみたら痛みも紛れるかもしれない”と思い、自分のひざに小さなキーボードを置いて、母の枕元で、ついさっきできたフワッとし
そこから数年間メロディーのままだったのですが、'19年、私が生まれた街・藤沢で私の還暦バースデーライブを開いたとき、“Mamaへの感謝の日にしよう!”と思いたったんです。また、ファンのみなさんに、これまでちゃんとお伝えすることができなかった“'80年代のステージ衣装を母が作ってくれていたこと”を初めてきちんと伝え、その衣装を数点ピアノの横に並べ、『Mama』という歌を母にプレゼントしたんです。ライブのときはいつも後ろのほうにいる両親でしたが、そのときだけは最前列に来てもらい、歌った後、60本のチューリップを母に贈りました。その歌のメロディーが母がリウマチに苦しんでいたときに聞いてもらったもので、還暦ライブを前にあの日のことを思い出し、歌詞が自然とできました。それが『Mama』の歌です。
本当は母が生きているうちにリリースしたかったのですが、プロモーションビデオを撮った大涌谷が再噴火し、登山鉄道が土砂崩れ、さらにその後コロナ禍に突入という三重苦が続き、“みなさん、箱根に来てくださいね!”なんて、とても言えなくなってしまいました。そのままずっとお蔵入りで、ときどきコンサートで歌う程度でしたが、両親が旅立ち本も完成したので、このタイミングでリリースすることにしました」
本作は、《痛みこらえるママを見て 何もできずに泣いた夜》というフレーズがとても印象に残る。また、本作のプロモーションビデオの撮影も、母の笑顔がきっかけだったと語る。
「たまたま親戚のみんなで箱根のロープウェイに乗ったときに、すでに闘病中だった母が、まるで少女のように目を輝かせて景色を楽しむ様子がとても心に残ったんです。母はもう飛行機にも乗れないだろうと思っていたのですが、ロープウェイで十分だって思えるほど喜んでいました。また、ゴンドラの一つひとつが命の連なりのように見えてきて、ここで撮影をしようと思えたんですね」
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SNSを活用するということや、肉親に対し介護サービス業者のように接することなど、親の介護について多面的にとらえる姿勢は、早期から環境保全に取り組んできた白井ならではのアイデアが多く、興味深い。次回は、その環境への取り組みや、本人もまったく予想だにしていなかった海外で大人気の楽曲について迫ってみる。
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
【PROFILE】
白井貴子(しらい・たかこ) ◎1959年、神奈川県生まれ。シンガーソングライター。フェリス女学院短期大学音楽科卒。卒業時期よりアマチュアバンド活動を開始し、1980年、ソニーSDオーディションにて、初の女性アーティストとして合格し翌年デビュー。'84年、『Chance!』のヒットを機に“ロックの女王”と呼ばれ、日本の女性ポップロックの先駆者的存在となる。'88年、ロンドンに移住。帰国後、音楽活動を再開し、作詞・作曲活動やアルバム制作、ライブ活動などを行う。また、環境保全にまつわる活動にも積極的に取り組み、神奈川県環境大使も務めている。'23年5月には、母の介護生活についてつづった初の著書『ありがとう Mama』(カラーフィールド出版刊)を発売。同時に「Mama」の楽曲&MV配信。
『Flower Power Initiative』アナログ盤復刻再発売!
→詳細は公式HPにて
◎白井貴子 公式HP→https://takako-shirai.jp/
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