映画化もされた『真夜中の弥次さん喜多さん』(1996年)をはじめ、『ヒゲのOL薮内笹子』(1996年)、『ジャカランダ』(2005年)など、これまでにないユニークな設定の漫画を世に送り出してきた漫画家のしりあがり寿先生(65)。近年は、大学教授や講師として若手の育成や、アーティストとして個展に精を出しています。今回は、サラリーマン時代の逸話や、兼業時代のエピソードについて語ってもらいました。
絵で食べていきたくて美大に進学
──しりあがり寿というペンネームは、どのようにして付けられたのですか?
「当時はキリンビールでサラリーマンをしていたので、デビューすることになって慌てて付けたんじゃないかな(笑)。本名(望月寿城)から一文字、取っているんだよね。もともと絵で食べていきたいという夢はあったけれど、田舎だったので“美大ってどうやって入ったらいいんだろう”っていうところからのスタートでした。結局、高校の美術の先生がやっていた絵の私塾に入った。現役のときは芸大(東京藝術大学)しか受けなくて落ちちゃったけれど、予備校に行って1年浪人して多摩美(多摩美術大学)に入りました。今考えたら、何浪もしている20代の先輩がものすごく貫禄があった(笑)」
──大学では、何を専攻されていたのですか?
「僕はデザインですね。絵だってそんなうまいわけではないし、ファインアート(純粋美術)は難しそう。アイデアで勝負できそうなのがデザインに思えたんです。多摩美では、デザインは広告とビジュアルで分かれていた。広告の授業でデザインの版下(印刷するときの製版用の原稿)を作るときに糊がはみ出したりしちゃって。定規のとおりにまっすぐ線を引くだけでストレスがたまっちゃったから、僕はビジュアルに進んだのね」
──大学ではどのような制作をされていました?
「イラストの授業で“自由課題です”って言われて喜んじゃって、スーパーで買った海老の天ぷらを提出した。ちゃんと台座も作ったのに、先生には無視されて。“なんだ、自由じゃないのか”って思ったけれど(笑)。イラストの範囲内での自由だったみたいね」
──今の作風に近いものを感じますね。
「そうかもしれない。同級生には漫画家の喜国(喜国雅彦)とか、先輩に小林(しゅりんぷ小林)さん、神矢みのるさんがいた。2つ下に祖父江(祖父江慎・デザイナー)や、(ミュージシャンの)サリー久保田もいたんだよ」
ヘタウマは新しいという自負があった
──ユニークな人材がそろっていたのですね。80年代は、しりあがり先生を始め、岡崎京子先生や桜沢エリカ先生など、一般誌以外で活躍される漫画家が台頭してきたように思います。
「若いころって、“自分たちがいちばん”って思うときがあるじゃん。それまでの漫画家の先輩たちが築いてきた伝統をちゃんと知らないで自分たちは新しい、みたいな。当時は大友克洋や江口寿史のような多彩な新しい絵の潮流があって、その中にヘタウマもあった。誰でも描けちゃうから“ヘタなほうが新しくて偉い”みたいな倒錯まであって、たくさんの人がオレも描けるぞ、みたいにイラストや漫画を目指した気がします」
──そのような潮目が変わったのはどうしてだと思いますか?
「個人的には、糸井重里さんの影響が大きいと思う。時代から湿気がなくなった。Gペンでグイッて力強く描く根性たっぷりの絵柄から、桜沢さんや江口さんのような乾いた絵柄っていうのかな。音楽も情念でこぶしを回す時代から、YMOとかP-MODELのようなテクノが流行(はや)り始めてきた。重厚長大から軽薄短小に移り変わった瞬間だと思う」