『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)の2代目オープニングアニメや、朝日新聞夕刊に連載中の4コマ漫画『地球防衛家のヒトビト』、宮藤官九郎監督により映画化もされた『真夜中の弥次さん喜多さん』など、しりあがり寿先生(65)のイラストや漫画を目にしたことがある人は多いのではないでしょうか。
インタビュー後編では、漫画家のみならずテレビ出演や大学教授など多彩な活動、50代以降に向けた人生観についても語ってもらいました。
スキルがないのが売りだった
──90年代前半は、みうらじゅんさんや蛭子能収さんなど漫画家の方がテレビに出演されるようになりました。しりあがり先生も、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)に出演されていた記憶があります。
「彼らくらいになったらテレビに出てもいいって思うけれど、僕はしゃべりが面白くないし。でもしいて断らないというか、僕はひとつのことにあまりこだわれない。自分から何かやりたいって思うことがないんですよ。しいて言えば、ラクがしたい」
──(笑)。そうおっしゃるわりには、すごく働いていらっしゃる印象ですが。
「最近、年を取ったからか、人生ってこの世界(今世)に観光旅行で来ているようなものだって思うんです。だから、ひとつの目標を達成するよりも、あれもこれもやってみたい。僕はスキルがないのが“売り”なのもあって、みんながいろいろなことをやらせてくれる。だから来るものは拒まず、うまくいかなかったら、“はい、次”みたいな(笑)」
──奥様の西家ヒバリさんも漫画家をされています。同業者でよかった点や、逆に大変だったというのはありますか?
「漫画を描くのを手伝ってもらったりしましたね。(夫婦で)得手不得手が違ったので、僕がアイデアを出すほうで、向こうは描くほう、みたいな感じです」
──奥様と共著の『ワケあり家族』(2008年)では息子さんと娘さんの育児にも触れられていますが、お子さんもしりあがり先生の職業に興味を持たれたりしていましたか?
「子どもたちが小さいころに、僕の漫画もそれとなくすすめたこともあるけれど、誰も読んでくれなかったね(笑)。エッセイの中で、僕が金髪だから周りから怪しまれたっていうエピソードもあるけれど、西家さんも似たり寄ったりだと思うよ。でも子どもの学校では、親が漫画家だというのは知られていなかったみたいでした」
コミカルな作風からシリアスになった理由
──東京がたった1本の巨樹によって壊滅していく姿を描いた『ジャカランダ』(2005年)は、どのようにして生まれたのですか。
「『ジャカランダ』や『方舟』(2000年)は、キャラクターがない話を描きたかった。90年代の漫画って、キャラクターが立っていれば成り立つような風潮があって、それが嫌だったんだよね。もう少し、キャラクターではなくて、集団や時代を通してある状況を描きたかったんです。時期的に80年代からの長引く停滞の中で笑ってばかりいられない、というかもうちょっと真面目に考えないとヤバイな、というのはありましたね」
──漫画を描かれた後に、実際に震災やパンデミックなどが起きています。その状況を見て、どう感じましたか。
「本当におぞましいことが、日常生活の中でいろいろと起きた。『地球防衛家のヒトビト』(朝日新聞の連載)でも、震災をテーマに描きました。でも例えば、野球漫画を描いている作家さんだと、“7回の裏ツーアウト満塁”っていうエピソードの回で地震が起きても、漫画の中で試合を続けなければならない。でも僕は、自分自身のその時一番気になることを素直に描けて精神衛生上よかったですね」
──それまでのコミカルな作風から、シリアスになった印象を受けました。
「東日本大震災が起きるまでは、『方舟』や『ジャカランダ』、『ゲロゲロプースカ』(2007年)にしても、“このままでは日本はダメだ”っていう思いからネガティブな要素のある作品ばかり出していたんです。そういった思いを込めて一生懸命描いていたけれど、あまり世間には伝わらず……(苦笑)。でも、震災のような災害が起きたのを見たら、逆に明るい未来を描きたくなったんです」
──世相が、作品にも影響するのですね……。
「でも、明るい未来が全然描けないんですよ。考えても絵空事になってしまう。なんというかホントに明るい未来を思い描く想像力がなくて。それで『ゲロゲロプースカ』や『そして、カナタへ。』(2015年)の連作ではとにかく大人の想像力がダメならば子どもに託そう! と少子化危惧マンガばかり描いてきた(笑)」